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2019年09月15日

受賞者インタビュー(1)  ルサンチカ 河井朗さん(演出家賞)

・今回演出家賞を受賞されましたが、まずは率直な受賞の感想をお聞かせください。
そうですね、嬉しくも悔しいという気持ちがあります、やるからにはグランプリが獲りたいなとは思っていたんですけど。
それでもこの作品が審査員の皆さんやいろんなお客様に認められたのは、すごく光栄に思います。


・今回上演された『PIPE DREAM』という作品はもともと京都府立芸術文化センターで2019年~2021年まで3年間にわたる支援プログラムの中で創作された作品だということですが、そもそもルサンチカさんの普段の活動のテーマや創作時のコンセプトを教えてください。
僕は劇団じゃなくてユニットという扱いなので、基本的には僕個人で制作をしています。
作品のテーマ性としては主に「人がこれからをどうやって生きていくか」ということを考えていて、僕が抱えている問題を、そのとき集まったクリエイションメンバーとともにどう作品にしていくかということを考えながら活動しています。


・今回上演した『PIPE DREAM』という作品について、特に強く抱いていたテーマやコンセプトについて教えてください。
「人の話をどうやって聞けるだろうか」ということをずっと考えていました。
それと植物状態になった私の祖母のことを考えていました。
相模原障害者施設殺傷事件の加害者の男が「意思の疎通をとれない人間は殺してもいい」ということを言っていて、
その言葉を聞いた時に、だとすると僕たちは赤ちゃんを殺さなければならないし、犬も殺さなければならないし、植物状態の人のことも殺さなくちゃいけないなということを考えてしまって。
そうすると私の祖母は死んでしまうな、とも思ってしまったんです。
それで「意思の疎通」というテーマが一つ大きくありました。

もう一つは、スウェーデンで流行っている「生存放棄症候群※」という難病のことでした。
その病気は植物状態になったわけではなく、ただただ眠りから覚めないという病気なんです。
さきほどの「意思の疎通をとれない人間は殺してもいい」という前提からすると、その人たちも殺されてしまうな、と思って。
でも僕は、その人たちは今を生きることを保留にしたんだなと思ったんです。
(※20年前からスウェーデンでのみ発生している難病。亡命を望む難民のこども達に多く見られ、強い精神的ストレスが原因と考えられている。)

今の時勢は生きることに関して様々な決断を自己責任というもので求められる時代だなと思うんですが、
それを一旦自己責任で解決できないものは保留にしてもいいのではないか、という思いがありました。

なので「意思の疎通」と、「どうやって今の生き方を保留にすることができるか」ということを考えるために今回の作品を作りました。


・今回の「PIPE DREAM」という作品では、舞台上で人が宙づりにされているというのが多くの観客にとって特に印象的だったのではないかと思います。また審査会でも杉山至さんが言及されていましたが「人の呼吸を思わせる照明の明滅」というのも今回観る者に強い印象を与えるものでした。今回演出をされた中で、そうした視覚的に印象的な手法を選んでいったのにはどのような狙いがあったのでしょうか。
たとえば人は植物状態になって寝たきりで長い間動かないと、関節が動かない拘縮状態になってしまうんですね。
そうして地に足をついて動くことができない、関節が固くなる、動けないという現象をどうやったら舞台上で意図的に作れるかなと考えたときに、一度空を飛ばす(宙に吊り上げる)べきかなと考えました。
人はやはり地に足を付かない限り、自立運動は出来ないのだと今回の作品で改めて自覚しました。
そういった意味で、ハーネスを着て空に飛ばすという方法を選びました。

照明に関しては、京都府立文化芸術会館の照明スタッフの方と話した時に、ずっと動き続けるチェイスの照明がとても自然な流れでいいのではないかというプランがあったので、以来ずっとそのデザインで上演しています。
意識的に照明だけを観てほしいというわけではもちろんなくて、舞台上で自然な流れでなにが起こるかわからないという状態を作り出せたらいいなと思っています。

ただ上演中に起きる照明の動きは、実はすべて偶然だったりもするんですけど(笑)。


・ありがとうございます。先程お話のなかにも出ましたが、元々この作品は京都で製作され、今年の3月には神奈川かもめ「短編演劇」フェスティバルで、そして今回のコンクールと上演を重ねられてきましたが、今回の上演を終えてみての手ごたえや印象はいかがでしょうか。
今回この作品は5回目の公演で、初演は僕一人だけで舞台に立って、そこからどんどんいろんな人とクリエイションを重ねてきました。
せんがわでの上演は「どうやって人は眠りにつくのか」「死んでいくのか」ということについて考える旅みたいなものだなと思えました。もちろんこれからもずっと続いては行くんですけど、今回で一区切りをつけられたかなと思いました。



【ルサンチカ プロフィール】
河井朗が主宰、演出を行う演劇カンパニー。物事の色々をひとまず両手ですくい取ってみて、その時にこぼれ落ちた側に焦点を当てて作品をつくる。主に既成戯曲、小説、インタビューなどを用いて舞台作品を制作する。
  


  • 2019年09月12日

    第10回せんがわ劇場演劇コンクール講評 ~公社流体力学『美少女がやってくるぞ、ふるえて眠れ』~

    ※掲載の文章は、第10回せんがわ劇場演劇コンクール表彰式の際の講評を採録・再構成したものです。

    乗越:
    作品中に本人が言っていましたが、こういう作品がファイナリストに残るのが、せんがわ劇場演劇コンクールの素晴らしいところだなと自画自賛しております。本当に、こういう幅の広さが演劇の未来のために必要だろうと思います。
    上演中は一瞬「あれ、いま言いよどんだか?」と思わせたかと思うと絶妙にリカバリーしていったり。名優の安定した演技とはまた違う、ギリギリの魅力をギリギリのままに歩いていくのを見守る観客側の緊張感が、たまらなく魅力的でした。かと思うと最後まで息切れもしないし発語は聞き取りやすく、何気なく話していたように見えた伏線が鮮やかに最後で回収されたり、かなりの手練れなのではと思わせる。応募のビデオではもっと(言葉は悪いが)モッサリしたおっさんのイメージで、美少女役も本人がやるのかよ! と怖いもの見たさもありました。しかし実際に見ると意外に爽やかで美少女を演じても違和感を感じさせない。それは演技力ということでしょう。
    他の作品も見たいものの、あまりにも劇作と演出と本人のキャラクターが渾然一体となった作品なので、これからどう進化していくのか未知数っぷりがハンパないですね。勝手な不安要素ですが、期待したいところでもあります。とても楽しかったです。

    杉山:
    もう爆弾でしたね、爆弾。先ほども言った箱庭演劇祭など、今の演劇業界は本当に閉塞的だと思った時に、その尺度で測れないものが来ちゃったなと思いました。「これ漫才?落語?なにこれ?」と最初思っていましたが、すごい演劇的なんですよ。もしかしてシェイクスピアを生で見ていたらこういう感じだったんじゃないのと思うぐらい、劇がはじまっているのに、劇じゃない。今、客席の状況に戻っちゃったりとか、シェイクスピアってそういうこと平気でやっていたんですよね。ハムレットでも一番最初「WHO ARE YOU?(フーアーユー)」という台詞ではじまる。「お前誰だよ、誰だよ」と言われちゃうわけですよ観客が、そういう感じを受けて、「え、なに?いまはじまってんのに僕が作ってきた話のことをしてるんだ」みたいなことって、すごい戦略的に練っていて、これが演劇。「令和世代の演劇」って僕は名付けました。新しいぞと、思いましたね。空間の使い方もすごいおもしろいんです。なにもないんですよ。キューブもなければ照明の変化もない。彼がちょっといる場所で、家はこれぐらい、廊下がこれくらいで、今本当に壁に彼の手が当たっている。「しゅうこ(役名)」はここからのぞいて来たんだな、とか、大宮の駅前の様子であるとか、本当に位置どり、微妙な位置どりなんです。で、これは漫才では起こらない。漫才とか落語ではこれをもっと省略化する。だから明らかにこれは演劇だなと思ったんです。そういうところも非常にエクセレントで、本当におもしろかったです。あと他者がいるという感じもよかったです。私小説的な話なんですけど、ものすごい他者の目線があって、他者の目線で書いてる。でさらに、(これもシェイクスピアっぽいんですけど)ちょっと哲学的なんですよね。「宇宙の力を愛が超える」という。シェイクスピアさらにはギリシャ悲劇まで遡れるような。だから「なんだこいつ」って思いました。これヘタウマなくせに、ものすごい。もしかしたら文学少年なのか、とすごく感じましたし、LGBT的なこともすごく考えているようで、レズのカップルだったりとか、それに対して美少女という定義も、これはたぶん徳永さんが仰られて本当にその通りだなと思ったんですけど、すごくおもしろいフレームを作られているなと思いました。今、本当に閉塞している演劇界にこういう爆弾が必要で、こういうことで演劇がまたどんどんどんどん変わっていければいいんだなという風に思います。

    加藤:
    もうとにかくエネルギーというか、圧をずっと感じ続けました。シームレスにはじまっているんですけれども、ちゃんとメタ構造になっていて、中でもちゃんといろんな話が展開していくし、遡って伏線も回収される。たったひとりしかいないんだけれども、ものすごくたくさんの作業をひとりでこの場で家内制手工業じゃないですけど、どんどん生産して、それをこうどんどん浴びせられてるエネルギーをすごく感じました。なんとかして、作中のそばかすいっぱいのツリ目の「しゅうこちゃん」を想像しようと思うんですけど、とにかくあなたの姿しか見えなくて、なんなんだろうと思いました。すごい不思議な経験だなと思いました。この先ご自身が例えば俳優として、他の作品に出演したり、なにか新しい作品を書いてみる可能性をすごく感じましたし、色んな場所で活躍する姿というのを見てみたいなと思いました。

    市原:
    まず台本読んで、「どんな人が書いてるんだろう」「どういう影響を受けてこういうものができるんだろう」と興味深く、パフォーマンスを見て、もう読んだ時よりも何倍もおもしろかったです。自作自演の方と言いますか、自分が書いた台本に出る方っていると思うんですけど、やはり自作自演ではない俳優さんとは存在感が違いますよね。そういう方ってやはりイメージの膨大さが他の俳優とは全然違うんだろうなと思います。自分が俳優でこの作品を演じろと言われたら敵わないというか。それを俳優として評価していいのか分からないんですけど、素晴らしいパフォーマンスだなと思いました。お客さんとのコミュニケーションの取り方とかも狙っているのか狙っていないのか分からないんですけど、おもしろかったです。

    我妻:
    最初に予選で映像を拝見した時は、あまり印象が良くなかったです。本当に自分でボソボソ言っているような。「俺の美少女に対してみんな、なにも言ってくれるなよ」みたいな排他的な人なんだろうな、と思ったんです。そういう排他的な人が来てもおもしろいかもな、と思って、予選は選びました。ちょっとそういう意味ではいじわるな面もありました。こういう人がこういう劇場でやったらどうなるんだろうという興味があって。それで今日、私たちが入ってくる時、客席前で接客をなさっていて、「お客様に対して案内ができるんだ」「ちゃんとしたとこあるんだ」「社会性あるんだ」と思ったんです。「お楽しみに」とアナウンスして緞帳幕の裏に下がって、幕が開いたらそのまま同じ格好で立っていたので、その朴訥さ、飾り気のなさがすごく強みになっている作品だったと思います。特に舞台装置もなく照明の変化もなく、飾りまくっているわけでもなく、かっこつけてるわけでもなく、その人そのものがいるということしかない状態で、その人そのものの強さが一番出た作品であったのではないか。それが私は自分がやっている踊りと似ているなと感じるところがありました。台詞の喋り方が上手だとか、テクニックが上手だとか、振付が上手だとか、足がこんだけ上がるとか、そういうところは本当に意味がなくて、その人はどういう魅力があるんだろうという人の魅力によってお客様を「うわぁ、おもしろい」と惹きつけられる。そういうところを感じました。舞台中、自分のことを語る時の観客との駆け引きが上手で、爆笑を引き起こしていました。私は笑いませんでしたけど、理由は本当にうまいなと驚きながら見ていたからです。そこが非常に魅力的な方だなと思いました。そういう意味では、語っているところが個人的な美少女像だけれども、テーマが普遍的に開けている部分もあって、見ている間共感するところが多い分、言葉の裏や意味など何も難しく考える隙きがなくて「ホッ」としました。これが難しい問題だったらどうしようかと思いました。見終わった後に、「あぁよかった」みたいな気持ちになれたのが、非常におもしろかったです。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
    徳永:
    みなさんが仰ったように、観ているこっちを心配させるような半拍遅れの台詞術で、それが逆に、観客が周知して耳を澄ますという状況をつくりました。しかも、必要な情報はちゃんと伝わっているという。話が進むにつれ、計算は見えないし、不器用に見えてるけれども、冷静でしたたかな表現者ではないかと感じました。どこまで素朴と思っていいのだろうかと笑いながらちょっと怖くなるくらいでした。
    美少女にこだわって美少女にまつわる作品を作り続けていると、応募用紙にも書いてありましたし、この作品もとにかく「美少女」「美少女」なんですけれども、美少女の定義が、世間で流通しているような、若くて可愛いということじゃないと。そこがいいんですよね。恋をして走り出したその瞬間が美少女なのである、という定義が、フェミニズムからの反発をかわすんです。さらに美少女同士が愛し合っていて、LGBTへの理解もある。さらに、太田さんが演じた人物は、彼女たちの幸せを願って、被らなくてもいいような不幸を被って孤軍奮闘する。決して劣情を抱いたおじさんのフェティシズムの話ではないというところが、話が見えてくるっていう全体の構成に、最後はすっかり引き込まれましたし、本当に感心しました。お疲れ様でした。










      


  • 2019年09月12日

    第10回せんがわ劇場演劇コンクール講評 ~ルサンチカ『PIPE DREAM』~

    ※掲載の文章は、第10回せんがわ劇場演劇コンクール表彰式の際の講評を採録・再構成したものです。

    我妻:
    非常に楽しかったです。扱っているテーマが「死」ということでどういうことになるんだろうと思ったんですけど舞台上はすごく軽やかな浮遊感もあり、と思えば、すごく重力を感じる空間もあり、というところの浮く感じと実際の重力を感じるその使い方がおもしろいなと思いました。どういう風に死にたいか、ということを語る形で進んでいくのですが、自分の頭で考えるのと違って他人に語る時、人はこういう風に死にたいと語る時点でフィクションが必ず生まれてくる。リアリティからかけ離れた希望、夢が生まれてくる。「死」を語りながらも、ふわふわしたありえない夢を語ってしまう。しかし「死」というものは私達の足元に確実に流れている。舞台の下に沈んでいくという最後の演出も不可避の「死」を象徴していて非常におもしろかった。あと、「あ、こういう風に死にたい」ということを語ることによって、今の自分の在り方を考える。そういう時間の使い方っておもしろいなと思いました。ちょっとまとめきれないのですが、よかったです。

    乗越:
    僕もこの作品はすごい好きでした。まず幕が開いた時から、観客は一体なにがはじまるんだろうとグッと引き込まれて、ずっと見てしまう。それが次から次へ、ことごとく観客の予想を裏切る形で進んでいき、興味を惹き続ける演出というのがまず大したものだと思いました。そこで語られるのが「死」とか、ましてや「理想の死」という、それ自体本来キッチュな話題ではあります。しかし同時にそれらは現代社会では隠されている。現代社会において、死は常に隠されるようになっている。ほとんどの人は病院で亡くなり、家で看取るようなことがない。家畜は知らぬ間に食材となり、動物の死体も速やかに片付けられる。
    そういう「死」を排除した現代社会において、死については、改めて問われなければ語られないだろう。そこへさらに「理想の」という別のフックをつけることで、個人の特徴ある死生観を引き出し、リアリティを持たせていたのが戦略として優れていた思います。
    また冒頭の照明が呼吸をするように明るくなったり暗くなったりして、しゃべっている空間がどんどん変わっていく。空間自体の質を変える照明が素晴らしかったと思います。
    吊られていが女性もはじめは受け身で吊られたままだったのが、途中から自分から起き上がってコントロールするようになっていく。そこに脚立が来て降りてくる、というように、どんどん能動的な形のコミュニケーションが展開していくのも素晴らしかったと思います。「理想の死」を考えることは、「死」という究極の受動に対して能動的に関わろうとするひとつの形ですから。
    またリノを剥がし、床板まで剥がしていくのも、現代社会で隠されている「死」の表層を剥いでいくようでした。しかもそのまま床下に潜っていったあとも、床下から舌打ちが鳴り続いている。舌打ち自体は冒頭で女性が引きずられて来た時からあり、それが最後まで続いていく。いかに理想的な死を語ろうと、ほとんどの人はそれとは無関係に死んでいくわけですが、それで全て終わるわけではない
    。死を受けれるだけで終わってたまるか、という能動の極みにも思える。などなど、見た人の思考を様々に広げる力がありますね。本当に感心した舞台でした。

    杉山:
    僕はちょっと分からなかったんです。すごく分からなくて、(審査員の方に色々聞いたりしたんですが)吊っていることと、死、つられているものは落下する、重力に逆らえないというのもあるんですけど、どちらかというと仕組みが気になっちゃいました。フライングってよく舞台でやるわけで一番難しいのはコントロールできないということ。吊られている人は、それをうまく脚でひっかけることによって、方向性をキープして、あと動滑車を使っているから、荷重が二分の一になっていてる安定している。だから落下するには「安定しているな」と機能の方に目がいっちゃったいうのは裏方だからだと思うんですけど、そこがちょっと。僕だからだなとは思うんですけど。あとリノをめくるとか、テープを剥がすって、すごくあざといと思って、でもそのことはすごく挑戦しがいのあることだし、どんどんやって欲しいんです。逆に劇場をぶっ壊すぐらいのことまでいってもいいと僕は思うんですけど、そういう面では演出がものすごい考えていて、アグレッシブで挑発的であるということは感じました。感じたんだけれども一方ですごくそのコントロールされている世界だなというのがあり、もうひとつ気になったのが今までコンクールで見てた作品が閉じているとか、私的であるという、すごくモノローグっぽい台詞が多くなって来ている。その時にこの台詞を聞いた時に「モノローグなのになんでモノローグに感じないのかな」って、思ったんですよ。そしたら「これはインタビューなのか」と、インタビューだと聞く相手がいるから、語り出したら多分それが観客、だからモノローグなのにこれはなんか違う言語なんだなと思った瞬間に逆に僕は、テキストがそのモノローグの色んなものをコラージュしているだけなのかなと思ったり。「死」について色々語られるんだけど、例えば「庭で11時の日に死にたい」と言った人はどこの誰なのか、(パンフレットにも書いてあったけど)「いろんな職業、いろんな人に聞きました」とは、「誰に聞いた?」「植木屋さんなのかな」とか「性別は男なのか?女なのか?」「年齢いくつなのか?」そういうことがすごく気になっちゃいました。インタビューであるということとドキュメンタリーなのか、すごく捏造されたフィクションなのかということの「悩み」みたいなことを僕は抱えながら見てしまいました。全体的に、演劇とはなんなのかをものすごく考えさせられるラディカルな作り方をしているので、頑張って欲しいというか、突き進んで欲しい。たぶん、ぶっ壊して新しい世界作ってくれるんじゃないかなと思いました。この人たちの…。

    加藤:
    すごい美しい作品だなという風に思いました。私は技術に詳しくないので、彼女が吊り下げられて「理想の死」について語っている間、もしこのまま不慮の事故が起きて、彼女が落ちて死んでしまったらどうしようっていう謎の共犯関係を劇場中に置かれたような気がして、その緊張感の中で見るというのはすごくおもしろかったです。私すごくひねくれた性格なので、インタビューって書いてあるけれど、インタビュー映像があるわけでもないし、音声があるわけでもなくて、どこまでがインタビューなんだろう。ということを考えながらちょっと見ていました。なので、そのあたりは一体なにが真実なのかちょっとお伺いしたいなという風に思っています。あとはこういうコンクールでいわゆるショーケース形式で複数の団体が一度に上演して仕込みの時間もバラシの時間も短いという中でとにかく劇場の機構を使い切ってやろうという心意気というのは素晴らしかったなと思います。

    市原:
    私も、宙に吊られていて、吊られている人が自分でそれを操っていた時に、あ、すごく大丈夫なものなんだこれは、って思ったんです。で、吊られていることのおもしろさが自分の中で減ってしまって。でもそれはつまらないことかもしれません。やられている事に対しても審査員それぞれ色んな解釈があってそれを聞くことはおもしろかったんですけど、私は正直そこまで深読みできなかったという感じがしたし、動きと言葉がどのくらい関わってるのかとかも私が分からなかったというのがありました。色んなものを剥いでいったり、開いたりして、それは驚くべきことなのに私は驚けないのはどうしてかなと思いました。その最後に舞台監督さん風の俳優が出て来て片付けていくのも、作品的にはひとつ事件だと思うんですけど、どうして事件になっていないんだろうと自分の中で思いました。そのひとつのアイデアとして照明は最初素敵だと思ったんですけど、そこからあまり裏切りがないというか、もっと変化がもしかしたらあってもよかったのかなと。起きていることの面白さが届いているかというと私は分からなかったという感じがありました。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
    徳永:
    死と眠りをシームレスに繋げるという狙いがあったのかなと感じました。最初に女性が寝言をしゃべっているような状態で登場して、男性がラピッドアイムーブメントの説明をする。そのオープニングで、これからはじまるのは夢についての物語であろう、と受け取ったわけですが、以降の情報の出し方があまり上手くいかなくて、観客が長い待ちの状態になってしまった。企画書に、事前に「理想の死」にまつわるインタビューをして、それを採り入れたとあったので、それを読んだ人はなんとなく理解できたでしょうが、前情報がないお客さんには、受け止めるまでに時間がかかってしまったんじゃないでしょうか。ただ、私はすごく好きな作品で、近藤さんもよかったと思うんですけど、地道さんもよかったです。さまざまな段取りをこなしつつ、インタビューで語られた「理想の死」について粛々と話す近藤さんとは対象的な、幻視された死を差し込むみたいな役割を請け負いつつ、お客さんに向けて開いていたような気がするんです。その点はすごくよかったです。









      


  • 2019年09月12日

    第10回せんがわ劇場演劇コンクール講評 ~劇団速度『Nothing to be done.』~

    ※掲載の文章は、第10回せんがわ劇場演劇コンクール表彰式の際の講評を採録・再構成したものです。

    市原:
    最初に幕が上がった時の画が良いと思いました。始まってからは、踊りかなと思ったんですが、言葉が出てきてからは演劇についての演劇なのだと見ることができました。「ここ見て」というシーンも面白かったし、対話、質問のところの台詞もやりすぎなくてちょうど良い量だったと私は思います。それが手がかりになって見やすくなり、整理される感覚がありました。出演者の方も自分の仕事をあしっかりされている感じがして好感度の高い作品で、面白かったです。

    我妻:
    最初にパッと見たときの装置の感じやセンスが、すごく高いと感じました。進行する内にあまり具体的なストーリーがないものですから、これはかなり問題意識が高い作品なんだろうという風に思って見ました。でもその問題意識の「問題」ってなんだろうというのは全然わからずに終わってしまって、私がちょっとバカだからかなとか思いながら控え室に帰って、審査員の先生方が語るのを聞いて、なるほどそういう見方をすれば、こういう切り口で見ることができるんだなと思いました。そういう意味で、私にとっては、最初の引っ掛かりを掴み損ねてしまったので、「そこに問題意識があるんだろうなあ」で終わってしまった感がありました。

    乗越:
    非常に身体性の強い作品で、演劇のコンクールにこういう作品が登場するのはとても嬉しく思いました。世界的にも、国際演劇フェスと言われているものでも大体2~3割はダンス的なものが入ってきますし、基本的にはもう、パフォーミングアーツとしてダンスと演劇を分ける必要もなくなってきていますから。ただチラシを見ると彼らのコメントとして「ダンスのことを考える作品を作っていきたい」と書いてあったのに、当日のパンフではなぜか削除されており残念でしたが、ぜひダンスのことを考え続けていただきたい。
    二人とも身体性が強く、コンタクト・インプロビゼーションと言われるダンスの方法で、絶えず相手の体に触れて、相手の体の動きを読み取りながら自分も動きを作っていく。あるいは「全力で向こうに行こうとする相手を全力で止める、そのやりとりがダンスになる」というような手法をかなり強い形でやっており、それを演劇作品として提示するのはいいですね。しかし、あの長さが必要だったのかというのがちょっと疑問ではあります。
    映像のようにフォーカスができない舞台上において、「ここ見て」と観客の視線を誘導して、集めた場所にもうひとりが絡んでいってコミュニケーションが始まる、というところは、非常によかったと思います。
    ただ冒頭、木が立っていてその延長線上に花が置いてあり、「これ絶対倒れるよな」と思っていたらやっぱり倒れた、という展開はあまりにも「そのまんま」なので、そこは裏切って欲しかった。

    杉山:
    劇場に入って、ちょっと笑いました。柱の立ち方がめちゃくちゃ面白かった。安藤忠雄とコラボレーションしているような。本当に、ここの壁の歪みはすごく邪魔で、それをすごく意識されていて袖幕もまっすぐ垂らせないんですよ。だからどこのカンパニーもそうだったんですが、暗転で最初に幕が閉じるんですが、明かりが漏れちゃっていた。でもそれをわざと使っているとか、柱の倒し方もおもしろかった。上手側に傾いている物を下手側に倒すのってすごい難しいんです。それをわざと引っ張って、グンと余力を使ってから倒した。そういうところもすごくおもしろかった。まさに僕はコンタクト・ゴンゾ(※)とか地点(※)のスポーツ演劇をすごく思いました。身体ということから、どうそれを演劇と絡めていくか。二人の体が、地上に落ちないようにずっと頑張っていくということと柱が落ちないという重力に逆らっているという感覚とかもすごくおもしろくずっと見ていられるんですけど、台詞の方で、もうちょっとコンタクトがあっていいんじゃないかな。体のコンタクトのような、台詞自体がメルトダウンしていくとっていうんですかね、意味を剥ぎ取られていく。そういう感覚が体の方にはあったんです。あと衣裳が、もうちょっと考えてもいいかなと。時間が経つ、あるいは変化していく。あれだけの汗かいて、腹が真っ赤になるのがすごい素敵なんですよね。そういうことが、衣裳でも起こるとおもしろい。衣裳の色が変わっていくとか破けていくとかでもいいんですけど、そうすると、時間が経っていく。あれだけの時間が必要だったかというのが見えて来ると思えました。好感の持てる作品で、僕は好きです。

    ※コンタクト・ゴンゾ:2006年にダンサーの垣尾優と塚原悠也により結成され、複数人のメンバーからなるアーティストユニット。http://contactgonzo.blogspot.com/
    ※地点:三浦基氏が率いて京都で活動する劇団。http://chiten.org/about

    加藤:
    まず舞台上をパッと見た時にものすごく余計なものがないというか、必要なものだけが置かれているという整った美しさみたいなのを先ずイメージしました。舞台装置の柱と、同じ角度になろうと俳優さんが反っている姿というのがすごいおもしろかったです。「この人たちはすごい体が利く人たちなんだな」というのがその瞬間から分かって、もちろん上演中の体の動きみたいなものもすごく魅了的でしたし、ずっと見てられるなと思いました。ただ、台詞が出た時の体の状態と台詞の必要性みたいなものが、もうちょっと見えると良かったかなと思っています。いろんな職能を持った方がいらっしゃる団体なんですよね。コレクティブな作り方というのはどんどん増えていて、演劇とかダンスとか美術とかいろんなもののジャンルだったりボーダーみたいなものをどんどん飛び越えながら作品を作り続けて欲しいなと思いました。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
    徳永:
    私は大好きでした、この作品。みなさん身体のことを仰っているんですけど私は演劇の歴史についての物語だと解釈しました。奥に座っている人が、飾ってあるお花を正座して観ていましたど、あれが旧来の演劇の見方、演劇と観客の関係だったのが、正面側の人がゼスチャーで「ここ見て」と観客の視線を誘導したのが現代の演劇の起こり。観客はそれを無視してるんですが、ずっと「ここ見て」「ここ見て」と訴え続けている。この人は演劇そのものを表していて、あっち(舞台後方で正座をしている)の人は観客そのもの。「ここ見て」「ここ見て」と演劇が言うのですが、演劇の動きはちっとも定まらず、演劇自身も困ってしまうんです。「ここ見て」と言いながら「ここ」を特定できないから、でも歴史ってそういうものだからしょうがなくて、ずっと苦労して、「ここ見て」「ここ見て」と言っていると、観客が、ようやくちょっと気付いて接近をする。最初視線も全然交わらないでようやく肉体のコンタクトがはじまるんだけれども、組んずほぐれつ、ぶつかる。でも目は合わないし、彼らは決して手を触れ合わないようにして、体をぶつけあう。ぶつかりあう途中で人という形になったりして、「ああ、支えあってるんだな」と思いました。最終的にふたりのポーズがピタリと重なって、ようやくそこまで関係が進んだと思ったら、歴史はリセットされるので、観客は最初の位置に戻り、また演劇は「ここ見て」とやりだすんだけど、その頃は演劇はクタクタ。息が上がりながら「ここ見て」と言っていると、既にもうコンタクトはしているので、観客は、俊敏に反応して、目をちゃんと合わせるようにして近づいてくる。そうすると今度は演劇が観客に合わせようとはしない。というのは、舞台に刺激され、頭の中で動いていたストーリーですが、それをふたりの体だけでやりきったこと、その物語が緊張感のあるパフォーマンスになっていてすごくおもしろかったです。










      


  • 2019年09月12日

    第10回せんがわ劇場演劇コンクール講評 ~イチニノ『なかなおり/やりなおし』~

    ※掲載の文章は、第10回せんがわ劇場演劇コンクール表彰式の際の講評を採録・再構成したものです。

    加藤:
    パンフレットに、「魅力のない町茨城から来ました」という風にコメントがあったんですけど、みなさんが作っている作品には、自分たちが住んでいる町や場所への深い愛情というのを感じました。ただ場所への愛情が深いからこそ、作っているみなさんが共通認識として持っている「町」と言った時にパッと浮かぶ風景が、仙川に暮らす人々であったり、われわれ東京や他の地域で暮らす人間には、なかなか共通のイメージをしづらい瞬間があったのが、もったいなかったかなと思いました。もう少し「コンパクトシティ」とはどういうものなのか?であったり、具体的な場所のイメージを共有する時間があったらいいのになと感じました。絵筆が大きな筆に変身して空を飛ぶというシーンがすごい素敵だなと思いました。

    市原:
    ほとんど同感なんですけど「コンパクトシティ」というものが舞台を見ただけでは理解できず、抽象的で素敵なシーンが多いんですが、そのシーンの配分が多すぎて、もうちょっと具体的な部分を知りたい、と舞台を見た後にすごく感じました。

    我妻:
    私も田舎の出身なので、人口の流出であったりとかは、実家に帰った時、自分もそういう気持ちになるなと重ねながら見ました。シンプルな舞台ですけれども、みなさんが演技の中で丁寧に行なう仕草や会話のテンポによって景色が広がる瞬間が多くて、自分もそこの中にいて、その住民になって同じ問題を抱えているような錯覚に陥って楽しかったです。

    乗越:
    みなさん仰っているようにこの作品のもうひとつの主役は「都市」ということだと思うんですが、その描きこみがちょっと足らないと思います。現代の地方都市には「駅前に葬儀場が多い」など、ぐっとくる描写はいくつかあったのですが、肝心な「コンパクトシティ」が描く100年後というのが、「人も飛んでいる」「車も飛んでいる」とか、割と大昔のスタンダードなSFの未来都市像でしかなく、魅力的に思えない。もっと独自のアイデアに満ちたリアリティのある未来都市像だったら、その計画からはじかれてしまったお母さんの無念さにもっと感情が動くのだろうと思いました。
    あと、お母さんの不在を空席で表現し、そこにいろんな人が座ってお母さん役を演じる演出は、なるほどとは思いますが、その効果や必要性については疑問が残りました。ただお父さん役の人が、お母さんの格好するのは味わい深かったですけれども。

    杉山:
    また名付けました勝手に「新社会派演劇」と。「社会とどうやって演劇とかが関わっていくのか」ということは今、ひとつのテーマだと思います。古い時代の演劇がどんどん消えていって、そこで取り上げていた社会的な大きな問題にも関心が薄くなって、テーマが個人的で閉塞的なものになっている。でも、地方が抱えている問題や、少子高齢化、親と子の関係、そうした大きなテーマを真摯に扱おうとしているというところに僕は惹かれて、もっともっとこういう作品を、地道に太く作っていってもらいたいなと思いました。
    みなさんが言われている通り、描き方がゆるいかなというのがありますが、テーマは面白いんです。「コンパクトシティ」とか「100年後」とか。
    100年後の人たちに「100年前のあいつらが町をダメにした」とは言われたくないよね。浮世絵とかに描かれているように、現在から100年前の人たちはすごい良いものを作っていたのに、うまく引き継いで残せなかったじゃないか、と。そういう意味で「100年後」ということが、僕はもっと日本のいろんな地域で問われていくんじゃないかと思います。だから、テーマはすごく面白い。
    演出の方法もさまざまなやり方を使っていて、手数知ってるな、という感じがしました。モノローグ入れたりラップ入れたり、それだけかと思いきや、「日常会話入って来たよ」みたいな。今の子供たちが使う言葉を使ったり、無対象でやったり、逆にいろいろありすぎて、演出の方向が定まってないなという感じもしました。
    美術的にいうと、世界劇団もそうなんですけど、キューブがね……。なんでみんなキューブを使うんだろう。僕「キューブ排除運動」というのを結構やっているんですが、キューブは便利すぎるんですよ。抽象舞台にキューブで、テーブルにも椅子にも車にもできるんですが、舞台上にあるのはやっぱりキューブ、四角い箱なんです。世界劇団がそこで頑張っていたのは、絵を描いてて、海であるとか魚であるとか。イチニノさんは、椅子はよかったです。あの椅子の雰囲気が、歴史だったり、時間だったりを感じさせて、無対象表現もそれで生きていたのかなと思いました。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
    徳永:
    私の感じたことをまとめると、ちょっと客観性が足りないんじゃないかと思います。「コンパクトシティ」という単語や、100年という問題が、劇中で非常に大事なものとして語られるわけですけど、それがまず観客と共有できていない。共有するためには、そんなにたくさん台詞はいらないと思います。あと少しの工夫を考えてほしい。今、劇場に演劇を見に来る人は、社会問題のことが気になっている人が大部分なので、ピンと来る人はいくらでもいる。それがもうワンポイントあれば、作品の世界観をもっと共有しやすかったのではないでしょうか。
    それと私が気になったのは、胴の長い猫という話になってくると、女優さんふたりがアニメの声優さんっぽい声色になることです。喋り方もなぜか可愛い感じになってしまって、私としては……。テーマはすごく太いことをやってらっしゃるので、気になりました。情感が高まるシーンで、それを安易に盛り上げるようなBGMが流れるということも、気になりました。せっかく杉山さんが「新社会派」とお付けになりましたけれど、描きたいのは大きなテーマだと思いますので、そういった柔らかさをもう少し排除して、太いものを太いまま出してもいいんじゃないかなと私は思いました。









      


  • 2019年09月12日

    第10回せんがわ劇場演劇コンクール講評 ~世界劇団『紅の魚群、海雲の風よ吹け』~

    ※掲載の文章は、第10回せんがわ劇場演劇コンクール表彰式の際の講評を採録・再構成したものです。

    杉山:
    非常に僕は好きで素敵な作品だなと思いました。少女の成長の物語で、それをすごく科学的なところから捉えていました。台詞は七五調で、唐十郎とか、野田(秀樹)さんの初期のころの感じがあったりして、アフターチェルフィッチュ(※)、アフター平田オリザの時代に、これがまた戻ってきているということが面白い。と同時に、今までだったら単なる文学的なフレーズで終わるところを、そこに科学が入っているというのが、すごくいいなと思いました。
    もうひとつ面白かったのが、台詞の七五調に対して、音楽と身体が作り出すリズムが分離していること。普通だったら台詞と身体は一緒になってくるんですけど、身体の方はどちらかというと音楽とリズムの方に合っていて、そちら側がバックグラウンドを作って、台詞は遊離している感じ。非常にお面白かったし、創作過程にすごく興味を持ちました。
    サイエンスポエットだなと思いました。サイエンスなんだけど詩的で、そこがすごく新しい。

    ※チェルフィッチュ:岡田利規氏が主宰する演劇カンパニー。https://chelfitsch.net/works/

    加藤:
    まず俳優の皆さんがそれぞれすごくチャーミングで魅力的な方々だなというのが強く印象に残っています。オープニングで「バッ」と出てきた時にお客さんの心をすごい「ギュ」と掴んだ感じというのも客席にいてすごく感じました。
    これは個人的な意見なのですが、作中で出てくるライフステップの中に、出産ということが、あたかもみんなに平等にあることのように書かれてしまっていることに、私はちょっと違和感を覚えました。「大人になるってどういうこと」のアンサーとして、「子供を産むってこと」というのがあるのだとしたら、戯曲の中の整合性は取れていたと思うんですが、そのアンサーがない中で、出産というものをライフステップのひとつとして扱ったというのが、ちょっと疑問に残りました。
    一番かわいいなって思ったのが、みなさんが、マイクをそっとその前のところに返しに行く仕草で、めちゃくちゃかわいかったです。

    市原:
    言葉のセレクトが面白くて、俗物っぽい要素が入っていたのがなんか嬉しいという感じがしました。身体が動いていて、出だしで引き込まれました。
    ただ最後「大人になるってどういうこと」「大人になるってそんな大したことないわ」みたいな感じだったと思うのですが、そこに到達した嬉しさがあまりなく、それまで素晴らしかった分「なんだ」という感じがしました。私はたとえそれが間違っていたとしても、もっと作者独自の考えをみたかったです。でも言葉の選び方が面白かったなと思います。

    我妻:
    みなさんすごくチームワークがいいんだなというところを感じました。稽古もいっぱいなさってるんだと思いました。台詞もすごく伝わる言葉を選んでいるなというのと、踊りのグルーヴ感とか、歌であったり、演出的にも色々工夫なさっていると思いました。
    ただ、全体の印象でいうと、すごくスムーズにテンポで進みすぎてしまうということがあって、そこが見やすいといえば見やすいんだけれど、「(作品が)あ、終わった。」みたいな感じで、ちょっともったいないなという感じです。踊りでいったら、そういう感情の時に体の動きはどうなるんだろうか、というところを全部振付によって消してしまっているところがあって、そこが気になりました。

    乗越:
    非常にキュートな作品だと思います。特にお母さん役とドーパミン役のふたりのデュオの体のキレがすごく良かった。
    主人公以外は全員顔を白く塗って異形の姿をしている。主人公の第二次性徴の恐れが出発点になっているのはわかるものの、あそこまでの攻撃性は唐突な印象でした。なぜ彼女がそこまで恐れたりあるいは憎しみに近い感情を持っているのかの描写が不足で、いまひとつリアリティとして伝わってこなかった。第二次性徴自体は普遍的なテーマであっても、それにともなう感情は個人的なものなので、そこをもうひとつ掴みとって投げてくれたら、観客はもっと話に入れたのだろうなと思います。
    あと衣裳の色が好きでした。南国の蝶々の羽根のような毒々しい感じのものや、お母さんの腕の部分に意味もなくカラーボールが入ってるとか、すごくよかったと思います。

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    徳永:
    オーディエンス賞おめでとうございます。ただ私は辛口です。何人かの専門審査員の方からも出ていましたように、七五調の台詞とか、ラップを意識した韻の踏み方で、それは個性になっていましたが、デリケートな問題を扱っているのに、リズムを優先させるあまり、すごく雑に終わってしまっている。
    加藤さんから出産の問題の指摘がありましたけど、それも含めてこのテーマを、皆さんのやり方でストレートに受け取ると、初潮前後の思春期の女の子の一時的な心身の不安定な状態の物語、で終わっちゃうんですよ。でも本当はそうじゃなくて、女性や思春期に限定されない、人が一生抱えていく問題を扱っているんだと思うんです。さっき(キュイの講評で)話にも出た、大人も子どもも成長しない今の日本の社会の中で「大人になるってどういうこと」というのは、もう全員の問題なんです。それを扱ったにも関わらず、リズムやテンポを優先して内容を深められなかったのはすごくもったいないと思いました。
    「大人になるってどういうこと」と自分たちで立てた問いへの答えが「どうでもいいんだわ」というのも、そこに着地するのなら、なぜ彼女は引き籠もったのか、なぜ自分の体の変化に対して、あそこまで恐れや汚れみたいなものを感じたのかということとのバランスが悪いですよね。あそこまで彼女が怯えたことに対する答えとしてはあまりにも雑だし無責任でもある。
    「大人になるってどういうこと」は普遍的な問いですが、それをテーマに持ってくるのなら、新しい問いの立て方や自分たちなりの答えを表現の中に織り込まなければいけない。それが成されてなかったと思います。なので、私としては「うーんまだまだ」という感じがしました。









      


  • 2019年09月12日

    第10回せんがわ劇場演劇コンクール講評 ~キュイ『蹂躙を蹂躙』~

    ※掲載の文章は、第10回せんがわ劇場演劇コンクール表彰式の際の講評を採録・再構成したものです。

    乗越:
    非常に言葉に力があり、脚本全体に「グサッ」とくるようなセリフが多くあったのが印象的でした。僕は先に台本を読んでいたので、冒頭から、ひとりのキャラクターが3つの人格でしゃべっていることをわかった上で見ていたわけですが、観客の中には「ひとりの医者に何かをされた3人の子供の話」だと受け取ってしまう人もいるんじゃないでしょうか。もしそこをつかみ損ねると、この作品全体の(自分の頭の中と外界、森の外と内)という二重の構造の上に成り立つ部分が伝わりきらない恐れがありますね。
    内容は、個人と世界(社会)がどう関係を紡いでいくか、構築していくのか、いけるのかということ。学ぼうとしたり、馴染もうとしたり、殴りたくても「殺してはいけない」と言われたり、馴染もうとするが合わせすぎてはいけないなど、様々な要素が入ってきます。しかし最終的には「世界を殺すか」「世界に殺されるか」という非常に強い、極端と思える言葉で締めくくられる。
    最初は、そこで終わっていいのか?と思いました。しかしその切実なリアリティが、今の社会と切り結ぶ断末魔の叫びのようにも聞こえて、非常に良かったと思います。
    演出も、舞台中央に吊るされた帯状のライトが光ることで空間が区切られ、3人が一体になったり、2対1になったり、そこから抜け出て行く蜘蛛の糸のようにも見えたりする。相対的に色々な趣向が張り巡らされた作品だったと思います。

    杉山:
    すごく難解な世界だなと思いました。それと同時に、1日2日経っても、綾門くんが書いた言葉が心に残るんですよね。「人を殺してはいけない、でも世界に殺される」とか、「ここから立ち去らねばならない」「ここにいなければならない」とか、否定形で語られる言葉がまるで宗教のようでした。例えばキリスト教は「隣人を愛せよ」とか、命令形・否定形を使って言葉の強さをすごく意識していると思うんです。
    で、現代宗教なき現代に、誰にすがるのかというと、医者なんですね。医者が私に「なぜ生きているのか」「どうすべきなのか」を示す。でも、その医者でさえも殺すんだ、と。
    さらに、心理学的な感じですが「森に入って行く」という感覚も面白くて、村上春樹の「井戸の中に降りていく」に近い感覚を持っている気もしました。
    戯曲は非常に面白くて、見ながら勝手に「間接演劇」という名前をつけました。目の前で起こっている事象は、あんまり意味がない。それよりも、言葉と、起こっている「事」から、勝手に昨日、自分に起こった「事」であるとか、今社会で起こっている「事」を妄想してしまう。見ていて僕が勝手に思ったのはやっぱり登戸の事件(※)とか、8050問題(※)。他者って何者なのかとかですね・・・。
    箱庭演劇祭という、大学生がやっている演劇祭の審査員もやらせて頂いているんですけど、演劇の世界が非常に狭くて、私小説的で、閉じている。日本がものすごく閉塞していると最近感じています。この作品は、すごくその世界を上手く捉えているともいえます。
    例えば、チェーホフが描く「私」には、自己のアイデンティティの中に「私は父であると同時に親であり酒飲みである」という風に、グラデーションがあります。でも、現代の「私」というのは、8050問題・7040問題(※)と言われているように、親と子が、成長しない関係でしかない。それが日本をものすごく閉塞的にしていて、キュイさんが作った世界はまさにそれだな、と思ったんです。
    殺すか殺されるか、 0か100しかない。 0 と 1で構成されるコンピューターの中の世界が、人間の生命のグラデーションを塗りつぶしているけど、本来はそこに豊かな関係があって、チェーホフが「三人姉妹」「桜の園」で描こうとしていた人間の心の揺れみたいなものは、そこに魅力があったんだなと、逆説的にですけど、考えさせられました。
    あと、照明も面白いなと思いました。吊られているLEDが光った時に、人間の生理現象に違和感を起こさせる効果があった。照明効果というのは、夕方だから赤い光、寒そうだからブルーとか、そういうことではないんです。人間の目は、15分たたないと暗闇の中で物を見る事はできない。それと同じで、LEDが変化した時、人間は生理現象としてすぐについていけないんです。そういう生理を照明効果として入れるアイデアを僕は素晴らしいなと思いました。
    あと、この劇場はめちゃくちゃ個性豊かで、難攻不落なんですね、安藤忠雄。僕もここでやらせてもらう時には、まずこの壁を隠したいとか、バックを隠したいとか、大変な思いをします。それを、超モアレ現象を起こすバックの壁を露出させて、横に出るラインをわざと照らしたのもすごくいい。その意識がまさに「間接演劇」なんです。別の言い方をすると「脳内世界演劇」。身体が排除されて、意識の中に入り込んでくるという感覚がありました。
    逆にちょっと損だったのが、演出意図がよくわからないこと。綾門くんが作っている“場なき場の戯曲”で、どうしてこの椅子なのか、アヒルの人形をこの空間で出したのか。もっと脳内のイメージを演出できたのかなという感覚はちょっとありました。

    ※登戸の事件:2019年5月28日に川崎市多摩区登戸で発生した通り魔殺傷事件。
    ※8050問題・7040問題:2010年以降の日本に発生している長期化した引きこもりに関する社会問題。
    (上記、Wikipediaより)

    加藤:
    私が作品を見る基準として「わかる」か「わからない」かを基準にすることは、ナンセンスだと思ってます。明確なストーリーがあって、はじまりがあって終わりがあってすべてのお客様が「あ、これはこういう話だったのね」って納得して帰る作品が、いい作品だとは思ってません。むしろ私たちの人生と同じように、なんだかよくわからないし、明確なストーリーもないし、でもなんかすごくモヤモヤするし、イライラもする。時たますごい気持ちよくもなるけれども、なんだか答えがわからない(ということでいい)。で、それをものすごく突き詰めて追求していった作品が、今回のキュイさんの作品なんじゃないかな、と思っています。
    そうした作品を作るときにすごく難しいのは、「あれ今私たち置いてけぼりになってしまっているかも」という、なんとなくお客さんを置いてけぼりにしてしまう時間が、出がちなことです。この作品では他者(=世界)と個人が断絶された二項対立が描かれているので、客席と舞台が演出の意図的に断絶されるんだったらいいんですけど、その辺の機微が本当に難しい作品なんだなという風に思いました。あと、すごく照明が綺麗でした。

    市原:
    私も演劇を作っているので、自分が言ったこと全部自分に返ってくるような感じで怖いんですけど。まず台本を読ませてもらって、すごく面白いと思いました。心に残りましたし、どうしてこういうことを書いたのかということを考えるのも面白かったです。日々生きていることの空気が投影されていて、自分の思っていることと結びつけて読むことができました。
    戯曲の言葉が強いので、演出に強い何かがあっても、それに耐えうる言葉だと思うし、俳優さんも魅力的なので、演出によってもっと相乗効果があって面白くなるんじゃないかなという予感を感じました。

    我妻:
    普段は舞踏という踊りをやっていて、セリフを使わずに舞台に立つ仕事なので、皆さんがおっしゃっているようなことは言えないですが、今回、私は台本を読まずに拝見しました。その時、何か全然わかんないことが起きてるという、ちょっと自分が取り残された感がありました。しかし、要所要所に印象に残る言葉があったり、家に帰ってから「こういうことを言っていたのかな」と思って台本を読んだら、全然違う話だったので、ちょっとびっくりもしました。
    結局、純粋に思ったのが、お客様は台本を読まない状態で見せられるという条件であるから、言葉の強さや、人の体の動きというのは、本当に繊細に選ばなければいけないんだなということです。なぜなら、お客様は、見たものを使って自分で組み立て直してしまうからで、そういうところを感じた作品でした。
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    徳永:
    戯曲を前もって読んだ時に、主人公の抱える苛立ちとか怒りというのが非常に切実に感じられました。ですが、実際の舞台を拝見したら、ひとりの人物から分裂した3人の登場人物だと思うんですが、話のトーンがほとんど同じで、3人に分けたメリットが感じられず、切実さを相殺しあってしまったような気がしました。
    台詞の中で読んだ時も、舞台上で聞いた時も、一番印象に残ったのは「世界は親切じゃないからこうやって話をしなければならないのに、話したいこと全部話すとみんなが怒るので、僕も怒らざるを得なくて困るとずっと言っているのに、聞いてよ」という台詞でした。それは、自意識に閉じているようで、実は「外に出たい。外と繋がりたい。外とぶつかりあいたい」という気持ちを表したものだと私は理解していて、この作品の最も大事な部分ではないかと思ったんですが、上演ではそれが苛立ちとしてしか感じられず、3人の人物は苛立ちの結果の分裂にしか見えなかったところが、閉じたまま終わってしまったと感じました。