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2019年09月12日

第10回せんがわ劇場演劇コンクール講評 ~公社流体力学『美少女がやってくるぞ、ふるえて眠れ』~

※掲載の文章は、第10回せんがわ劇場演劇コンクール表彰式の際の講評を採録・再構成したものです。

乗越:
作品中に本人が言っていましたが、こういう作品がファイナリストに残るのが、せんがわ劇場演劇コンクールの素晴らしいところだなと自画自賛しております。本当に、こういう幅の広さが演劇の未来のために必要だろうと思います。
上演中は一瞬「あれ、いま言いよどんだか?」と思わせたかと思うと絶妙にリカバリーしていったり。名優の安定した演技とはまた違う、ギリギリの魅力をギリギリのままに歩いていくのを見守る観客側の緊張感が、たまらなく魅力的でした。かと思うと最後まで息切れもしないし発語は聞き取りやすく、何気なく話していたように見えた伏線が鮮やかに最後で回収されたり、かなりの手練れなのではと思わせる。応募のビデオではもっと(言葉は悪いが)モッサリしたおっさんのイメージで、美少女役も本人がやるのかよ! と怖いもの見たさもありました。しかし実際に見ると意外に爽やかで美少女を演じても違和感を感じさせない。それは演技力ということでしょう。
他の作品も見たいものの、あまりにも劇作と演出と本人のキャラクターが渾然一体となった作品なので、これからどう進化していくのか未知数っぷりがハンパないですね。勝手な不安要素ですが、期待したいところでもあります。とても楽しかったです。

杉山:
もう爆弾でしたね、爆弾。先ほども言った箱庭演劇祭など、今の演劇業界は本当に閉塞的だと思った時に、その尺度で測れないものが来ちゃったなと思いました。「これ漫才?落語?なにこれ?」と最初思っていましたが、すごい演劇的なんですよ。もしかしてシェイクスピアを生で見ていたらこういう感じだったんじゃないのと思うぐらい、劇がはじまっているのに、劇じゃない。今、客席の状況に戻っちゃったりとか、シェイクスピアってそういうこと平気でやっていたんですよね。ハムレットでも一番最初「WHO ARE YOU?(フーアーユー)」という台詞ではじまる。「お前誰だよ、誰だよ」と言われちゃうわけですよ観客が、そういう感じを受けて、「え、なに?いまはじまってんのに僕が作ってきた話のことをしてるんだ」みたいなことって、すごい戦略的に練っていて、これが演劇。「令和世代の演劇」って僕は名付けました。新しいぞと、思いましたね。空間の使い方もすごいおもしろいんです。なにもないんですよ。キューブもなければ照明の変化もない。彼がちょっといる場所で、家はこれぐらい、廊下がこれくらいで、今本当に壁に彼の手が当たっている。「しゅうこ(役名)」はここからのぞいて来たんだな、とか、大宮の駅前の様子であるとか、本当に位置どり、微妙な位置どりなんです。で、これは漫才では起こらない。漫才とか落語ではこれをもっと省略化する。だから明らかにこれは演劇だなと思ったんです。そういうところも非常にエクセレントで、本当におもしろかったです。あと他者がいるという感じもよかったです。私小説的な話なんですけど、ものすごい他者の目線があって、他者の目線で書いてる。でさらに、(これもシェイクスピアっぽいんですけど)ちょっと哲学的なんですよね。「宇宙の力を愛が超える」という。シェイクスピアさらにはギリシャ悲劇まで遡れるような。だから「なんだこいつ」って思いました。これヘタウマなくせに、ものすごい。もしかしたら文学少年なのか、とすごく感じましたし、LGBT的なこともすごく考えているようで、レズのカップルだったりとか、それに対して美少女という定義も、これはたぶん徳永さんが仰られて本当にその通りだなと思ったんですけど、すごくおもしろいフレームを作られているなと思いました。今、本当に閉塞している演劇界にこういう爆弾が必要で、こういうことで演劇がまたどんどんどんどん変わっていければいいんだなという風に思います。

加藤:
もうとにかくエネルギーというか、圧をずっと感じ続けました。シームレスにはじまっているんですけれども、ちゃんとメタ構造になっていて、中でもちゃんといろんな話が展開していくし、遡って伏線も回収される。たったひとりしかいないんだけれども、ものすごくたくさんの作業をひとりでこの場で家内制手工業じゃないですけど、どんどん生産して、それをこうどんどん浴びせられてるエネルギーをすごく感じました。なんとかして、作中のそばかすいっぱいのツリ目の「しゅうこちゃん」を想像しようと思うんですけど、とにかくあなたの姿しか見えなくて、なんなんだろうと思いました。すごい不思議な経験だなと思いました。この先ご自身が例えば俳優として、他の作品に出演したり、なにか新しい作品を書いてみる可能性をすごく感じましたし、色んな場所で活躍する姿というのを見てみたいなと思いました。

市原:
まず台本読んで、「どんな人が書いてるんだろう」「どういう影響を受けてこういうものができるんだろう」と興味深く、パフォーマンスを見て、もう読んだ時よりも何倍もおもしろかったです。自作自演の方と言いますか、自分が書いた台本に出る方っていると思うんですけど、やはり自作自演ではない俳優さんとは存在感が違いますよね。そういう方ってやはりイメージの膨大さが他の俳優とは全然違うんだろうなと思います。自分が俳優でこの作品を演じろと言われたら敵わないというか。それを俳優として評価していいのか分からないんですけど、素晴らしいパフォーマンスだなと思いました。お客さんとのコミュニケーションの取り方とかも狙っているのか狙っていないのか分からないんですけど、おもしろかったです。

我妻:
最初に予選で映像を拝見した時は、あまり印象が良くなかったです。本当に自分でボソボソ言っているような。「俺の美少女に対してみんな、なにも言ってくれるなよ」みたいな排他的な人なんだろうな、と思ったんです。そういう排他的な人が来てもおもしろいかもな、と思って、予選は選びました。ちょっとそういう意味ではいじわるな面もありました。こういう人がこういう劇場でやったらどうなるんだろうという興味があって。それで今日、私たちが入ってくる時、客席前で接客をなさっていて、「お客様に対して案内ができるんだ」「ちゃんとしたとこあるんだ」「社会性あるんだ」と思ったんです。「お楽しみに」とアナウンスして緞帳幕の裏に下がって、幕が開いたらそのまま同じ格好で立っていたので、その朴訥さ、飾り気のなさがすごく強みになっている作品だったと思います。特に舞台装置もなく照明の変化もなく、飾りまくっているわけでもなく、かっこつけてるわけでもなく、その人そのものがいるということしかない状態で、その人そのものの強さが一番出た作品であったのではないか。それが私は自分がやっている踊りと似ているなと感じるところがありました。台詞の喋り方が上手だとか、テクニックが上手だとか、振付が上手だとか、足がこんだけ上がるとか、そういうところは本当に意味がなくて、その人はどういう魅力があるんだろうという人の魅力によってお客様を「うわぁ、おもしろい」と惹きつけられる。そういうところを感じました。舞台中、自分のことを語る時の観客との駆け引きが上手で、爆笑を引き起こしていました。私は笑いませんでしたけど、理由は本当にうまいなと驚きながら見ていたからです。そこが非常に魅力的な方だなと思いました。そういう意味では、語っているところが個人的な美少女像だけれども、テーマが普遍的に開けている部分もあって、見ている間共感するところが多い分、言葉の裏や意味など何も難しく考える隙きがなくて「ホッ」としました。これが難しい問題だったらどうしようかと思いました。見終わった後に、「あぁよかった」みたいな気持ちになれたのが、非常におもしろかったです。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
徳永:
みなさんが仰ったように、観ているこっちを心配させるような半拍遅れの台詞術で、それが逆に、観客が周知して耳を澄ますという状況をつくりました。しかも、必要な情報はちゃんと伝わっているという。話が進むにつれ、計算は見えないし、不器用に見えてるけれども、冷静でしたたかな表現者ではないかと感じました。どこまで素朴と思っていいのだろうかと笑いながらちょっと怖くなるくらいでした。
美少女にこだわって美少女にまつわる作品を作り続けていると、応募用紙にも書いてありましたし、この作品もとにかく「美少女」「美少女」なんですけれども、美少女の定義が、世間で流通しているような、若くて可愛いということじゃないと。そこがいいんですよね。恋をして走り出したその瞬間が美少女なのである、という定義が、フェミニズムからの反発をかわすんです。さらに美少女同士が愛し合っていて、LGBTへの理解もある。さらに、太田さんが演じた人物は、彼女たちの幸せを願って、被らなくてもいいような不幸を被って孤軍奮闘する。決して劣情を抱いたおじさんのフェティシズムの話ではないというところが、話が見えてくるっていう全体の構成に、最後はすっかり引き込まれましたし、本当に感心しました。お疲れ様でした。










  


  • 2019年09月12日

    第10回せんがわ劇場演劇コンクール講評 ~ルサンチカ『PIPE DREAM』~

    ※掲載の文章は、第10回せんがわ劇場演劇コンクール表彰式の際の講評を採録・再構成したものです。

    我妻:
    非常に楽しかったです。扱っているテーマが「死」ということでどういうことになるんだろうと思ったんですけど舞台上はすごく軽やかな浮遊感もあり、と思えば、すごく重力を感じる空間もあり、というところの浮く感じと実際の重力を感じるその使い方がおもしろいなと思いました。どういう風に死にたいか、ということを語る形で進んでいくのですが、自分の頭で考えるのと違って他人に語る時、人はこういう風に死にたいと語る時点でフィクションが必ず生まれてくる。リアリティからかけ離れた希望、夢が生まれてくる。「死」を語りながらも、ふわふわしたありえない夢を語ってしまう。しかし「死」というものは私達の足元に確実に流れている。舞台の下に沈んでいくという最後の演出も不可避の「死」を象徴していて非常におもしろかった。あと、「あ、こういう風に死にたい」ということを語ることによって、今の自分の在り方を考える。そういう時間の使い方っておもしろいなと思いました。ちょっとまとめきれないのですが、よかったです。

    乗越:
    僕もこの作品はすごい好きでした。まず幕が開いた時から、観客は一体なにがはじまるんだろうとグッと引き込まれて、ずっと見てしまう。それが次から次へ、ことごとく観客の予想を裏切る形で進んでいき、興味を惹き続ける演出というのがまず大したものだと思いました。そこで語られるのが「死」とか、ましてや「理想の死」という、それ自体本来キッチュな話題ではあります。しかし同時にそれらは現代社会では隠されている。現代社会において、死は常に隠されるようになっている。ほとんどの人は病院で亡くなり、家で看取るようなことがない。家畜は知らぬ間に食材となり、動物の死体も速やかに片付けられる。
    そういう「死」を排除した現代社会において、死については、改めて問われなければ語られないだろう。そこへさらに「理想の」という別のフックをつけることで、個人の特徴ある死生観を引き出し、リアリティを持たせていたのが戦略として優れていた思います。
    また冒頭の照明が呼吸をするように明るくなったり暗くなったりして、しゃべっている空間がどんどん変わっていく。空間自体の質を変える照明が素晴らしかったと思います。
    吊られていが女性もはじめは受け身で吊られたままだったのが、途中から自分から起き上がってコントロールするようになっていく。そこに脚立が来て降りてくる、というように、どんどん能動的な形のコミュニケーションが展開していくのも素晴らしかったと思います。「理想の死」を考えることは、「死」という究極の受動に対して能動的に関わろうとするひとつの形ですから。
    またリノを剥がし、床板まで剥がしていくのも、現代社会で隠されている「死」の表層を剥いでいくようでした。しかもそのまま床下に潜っていったあとも、床下から舌打ちが鳴り続いている。舌打ち自体は冒頭で女性が引きずられて来た時からあり、それが最後まで続いていく。いかに理想的な死を語ろうと、ほとんどの人はそれとは無関係に死んでいくわけですが、それで全て終わるわけではない
    。死を受けれるだけで終わってたまるか、という能動の極みにも思える。などなど、見た人の思考を様々に広げる力がありますね。本当に感心した舞台でした。

    杉山:
    僕はちょっと分からなかったんです。すごく分からなくて、(審査員の方に色々聞いたりしたんですが)吊っていることと、死、つられているものは落下する、重力に逆らえないというのもあるんですけど、どちらかというと仕組みが気になっちゃいました。フライングってよく舞台でやるわけで一番難しいのはコントロールできないということ。吊られている人は、それをうまく脚でひっかけることによって、方向性をキープして、あと動滑車を使っているから、荷重が二分の一になっていてる安定している。だから落下するには「安定しているな」と機能の方に目がいっちゃったいうのは裏方だからだと思うんですけど、そこがちょっと。僕だからだなとは思うんですけど。あとリノをめくるとか、テープを剥がすって、すごくあざといと思って、でもそのことはすごく挑戦しがいのあることだし、どんどんやって欲しいんです。逆に劇場をぶっ壊すぐらいのことまでいってもいいと僕は思うんですけど、そういう面では演出がものすごい考えていて、アグレッシブで挑発的であるということは感じました。感じたんだけれども一方ですごくそのコントロールされている世界だなというのがあり、もうひとつ気になったのが今までコンクールで見てた作品が閉じているとか、私的であるという、すごくモノローグっぽい台詞が多くなって来ている。その時にこの台詞を聞いた時に「モノローグなのになんでモノローグに感じないのかな」って、思ったんですよ。そしたら「これはインタビューなのか」と、インタビューだと聞く相手がいるから、語り出したら多分それが観客、だからモノローグなのにこれはなんか違う言語なんだなと思った瞬間に逆に僕は、テキストがそのモノローグの色んなものをコラージュしているだけなのかなと思ったり。「死」について色々語られるんだけど、例えば「庭で11時の日に死にたい」と言った人はどこの誰なのか、(パンフレットにも書いてあったけど)「いろんな職業、いろんな人に聞きました」とは、「誰に聞いた?」「植木屋さんなのかな」とか「性別は男なのか?女なのか?」「年齢いくつなのか?」そういうことがすごく気になっちゃいました。インタビューであるということとドキュメンタリーなのか、すごく捏造されたフィクションなのかということの「悩み」みたいなことを僕は抱えながら見てしまいました。全体的に、演劇とはなんなのかをものすごく考えさせられるラディカルな作り方をしているので、頑張って欲しいというか、突き進んで欲しい。たぶん、ぶっ壊して新しい世界作ってくれるんじゃないかなと思いました。この人たちの…。

    加藤:
    すごい美しい作品だなという風に思いました。私は技術に詳しくないので、彼女が吊り下げられて「理想の死」について語っている間、もしこのまま不慮の事故が起きて、彼女が落ちて死んでしまったらどうしようっていう謎の共犯関係を劇場中に置かれたような気がして、その緊張感の中で見るというのはすごくおもしろかったです。私すごくひねくれた性格なので、インタビューって書いてあるけれど、インタビュー映像があるわけでもないし、音声があるわけでもなくて、どこまでがインタビューなんだろう。ということを考えながらちょっと見ていました。なので、そのあたりは一体なにが真実なのかちょっとお伺いしたいなという風に思っています。あとはこういうコンクールでいわゆるショーケース形式で複数の団体が一度に上演して仕込みの時間もバラシの時間も短いという中でとにかく劇場の機構を使い切ってやろうという心意気というのは素晴らしかったなと思います。

    市原:
    私も、宙に吊られていて、吊られている人が自分でそれを操っていた時に、あ、すごく大丈夫なものなんだこれは、って思ったんです。で、吊られていることのおもしろさが自分の中で減ってしまって。でもそれはつまらないことかもしれません。やられている事に対しても審査員それぞれ色んな解釈があってそれを聞くことはおもしろかったんですけど、私は正直そこまで深読みできなかったという感じがしたし、動きと言葉がどのくらい関わってるのかとかも私が分からなかったというのがありました。色んなものを剥いでいったり、開いたりして、それは驚くべきことなのに私は驚けないのはどうしてかなと思いました。その最後に舞台監督さん風の俳優が出て来て片付けていくのも、作品的にはひとつ事件だと思うんですけど、どうして事件になっていないんだろうと自分の中で思いました。そのひとつのアイデアとして照明は最初素敵だと思ったんですけど、そこからあまり裏切りがないというか、もっと変化がもしかしたらあってもよかったのかなと。起きていることの面白さが届いているかというと私は分からなかったという感じがありました。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
    徳永:
    死と眠りをシームレスに繋げるという狙いがあったのかなと感じました。最初に女性が寝言をしゃべっているような状態で登場して、男性がラピッドアイムーブメントの説明をする。そのオープニングで、これからはじまるのは夢についての物語であろう、と受け取ったわけですが、以降の情報の出し方があまり上手くいかなくて、観客が長い待ちの状態になってしまった。企画書に、事前に「理想の死」にまつわるインタビューをして、それを採り入れたとあったので、それを読んだ人はなんとなく理解できたでしょうが、前情報がないお客さんには、受け止めるまでに時間がかかってしまったんじゃないでしょうか。ただ、私はすごく好きな作品で、近藤さんもよかったと思うんですけど、地道さんもよかったです。さまざまな段取りをこなしつつ、インタビューで語られた「理想の死」について粛々と話す近藤さんとは対象的な、幻視された死を差し込むみたいな役割を請け負いつつ、お客さんに向けて開いていたような気がするんです。その点はすごくよかったです。









      


  • 2019年09月12日

    第10回せんがわ劇場演劇コンクール講評 ~イチニノ『なかなおり/やりなおし』~

    ※掲載の文章は、第10回せんがわ劇場演劇コンクール表彰式の際の講評を採録・再構成したものです。

    加藤:
    パンフレットに、「魅力のない町茨城から来ました」という風にコメントがあったんですけど、みなさんが作っている作品には、自分たちが住んでいる町や場所への深い愛情というのを感じました。ただ場所への愛情が深いからこそ、作っているみなさんが共通認識として持っている「町」と言った時にパッと浮かぶ風景が、仙川に暮らす人々であったり、われわれ東京や他の地域で暮らす人間には、なかなか共通のイメージをしづらい瞬間があったのが、もったいなかったかなと思いました。もう少し「コンパクトシティ」とはどういうものなのか?であったり、具体的な場所のイメージを共有する時間があったらいいのになと感じました。絵筆が大きな筆に変身して空を飛ぶというシーンがすごい素敵だなと思いました。

    市原:
    ほとんど同感なんですけど「コンパクトシティ」というものが舞台を見ただけでは理解できず、抽象的で素敵なシーンが多いんですが、そのシーンの配分が多すぎて、もうちょっと具体的な部分を知りたい、と舞台を見た後にすごく感じました。

    我妻:
    私も田舎の出身なので、人口の流出であったりとかは、実家に帰った時、自分もそういう気持ちになるなと重ねながら見ました。シンプルな舞台ですけれども、みなさんが演技の中で丁寧に行なう仕草や会話のテンポによって景色が広がる瞬間が多くて、自分もそこの中にいて、その住民になって同じ問題を抱えているような錯覚に陥って楽しかったです。

    乗越:
    みなさん仰っているようにこの作品のもうひとつの主役は「都市」ということだと思うんですが、その描きこみがちょっと足らないと思います。現代の地方都市には「駅前に葬儀場が多い」など、ぐっとくる描写はいくつかあったのですが、肝心な「コンパクトシティ」が描く100年後というのが、「人も飛んでいる」「車も飛んでいる」とか、割と大昔のスタンダードなSFの未来都市像でしかなく、魅力的に思えない。もっと独自のアイデアに満ちたリアリティのある未来都市像だったら、その計画からはじかれてしまったお母さんの無念さにもっと感情が動くのだろうと思いました。
    あと、お母さんの不在を空席で表現し、そこにいろんな人が座ってお母さん役を演じる演出は、なるほどとは思いますが、その効果や必要性については疑問が残りました。ただお父さん役の人が、お母さんの格好するのは味わい深かったですけれども。

    杉山:
    また名付けました勝手に「新社会派演劇」と。「社会とどうやって演劇とかが関わっていくのか」ということは今、ひとつのテーマだと思います。古い時代の演劇がどんどん消えていって、そこで取り上げていた社会的な大きな問題にも関心が薄くなって、テーマが個人的で閉塞的なものになっている。でも、地方が抱えている問題や、少子高齢化、親と子の関係、そうした大きなテーマを真摯に扱おうとしているというところに僕は惹かれて、もっともっとこういう作品を、地道に太く作っていってもらいたいなと思いました。
    みなさんが言われている通り、描き方がゆるいかなというのがありますが、テーマは面白いんです。「コンパクトシティ」とか「100年後」とか。
    100年後の人たちに「100年前のあいつらが町をダメにした」とは言われたくないよね。浮世絵とかに描かれているように、現在から100年前の人たちはすごい良いものを作っていたのに、うまく引き継いで残せなかったじゃないか、と。そういう意味で「100年後」ということが、僕はもっと日本のいろんな地域で問われていくんじゃないかと思います。だから、テーマはすごく面白い。
    演出の方法もさまざまなやり方を使っていて、手数知ってるな、という感じがしました。モノローグ入れたりラップ入れたり、それだけかと思いきや、「日常会話入って来たよ」みたいな。今の子供たちが使う言葉を使ったり、無対象でやったり、逆にいろいろありすぎて、演出の方向が定まってないなという感じもしました。
    美術的にいうと、世界劇団もそうなんですけど、キューブがね……。なんでみんなキューブを使うんだろう。僕「キューブ排除運動」というのを結構やっているんですが、キューブは便利すぎるんですよ。抽象舞台にキューブで、テーブルにも椅子にも車にもできるんですが、舞台上にあるのはやっぱりキューブ、四角い箱なんです。世界劇団がそこで頑張っていたのは、絵を描いてて、海であるとか魚であるとか。イチニノさんは、椅子はよかったです。あの椅子の雰囲気が、歴史だったり、時間だったりを感じさせて、無対象表現もそれで生きていたのかなと思いました。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
    徳永:
    私の感じたことをまとめると、ちょっと客観性が足りないんじゃないかと思います。「コンパクトシティ」という単語や、100年という問題が、劇中で非常に大事なものとして語られるわけですけど、それがまず観客と共有できていない。共有するためには、そんなにたくさん台詞はいらないと思います。あと少しの工夫を考えてほしい。今、劇場に演劇を見に来る人は、社会問題のことが気になっている人が大部分なので、ピンと来る人はいくらでもいる。それがもうワンポイントあれば、作品の世界観をもっと共有しやすかったのではないでしょうか。
    それと私が気になったのは、胴の長い猫という話になってくると、女優さんふたりがアニメの声優さんっぽい声色になることです。喋り方もなぜか可愛い感じになってしまって、私としては……。テーマはすごく太いことをやってらっしゃるので、気になりました。情感が高まるシーンで、それを安易に盛り上げるようなBGMが流れるということも、気になりました。せっかく杉山さんが「新社会派」とお付けになりましたけれど、描きたいのは大きなテーマだと思いますので、そういった柔らかさをもう少し排除して、太いものを太いまま出してもいいんじゃないかなと私は思いました。









      


  • 2019年09月12日

    第10回せんがわ劇場演劇コンクール講評 ~世界劇団『紅の魚群、海雲の風よ吹け』~

    ※掲載の文章は、第10回せんがわ劇場演劇コンクール表彰式の際の講評を採録・再構成したものです。

    杉山:
    非常に僕は好きで素敵な作品だなと思いました。少女の成長の物語で、それをすごく科学的なところから捉えていました。台詞は七五調で、唐十郎とか、野田(秀樹)さんの初期のころの感じがあったりして、アフターチェルフィッチュ(※)、アフター平田オリザの時代に、これがまた戻ってきているということが面白い。と同時に、今までだったら単なる文学的なフレーズで終わるところを、そこに科学が入っているというのが、すごくいいなと思いました。
    もうひとつ面白かったのが、台詞の七五調に対して、音楽と身体が作り出すリズムが分離していること。普通だったら台詞と身体は一緒になってくるんですけど、身体の方はどちらかというと音楽とリズムの方に合っていて、そちら側がバックグラウンドを作って、台詞は遊離している感じ。非常にお面白かったし、創作過程にすごく興味を持ちました。
    サイエンスポエットだなと思いました。サイエンスなんだけど詩的で、そこがすごく新しい。

    ※チェルフィッチュ:岡田利規氏が主宰する演劇カンパニー。https://chelfitsch.net/works/

    加藤:
    まず俳優の皆さんがそれぞれすごくチャーミングで魅力的な方々だなというのが強く印象に残っています。オープニングで「バッ」と出てきた時にお客さんの心をすごい「ギュ」と掴んだ感じというのも客席にいてすごく感じました。
    これは個人的な意見なのですが、作中で出てくるライフステップの中に、出産ということが、あたかもみんなに平等にあることのように書かれてしまっていることに、私はちょっと違和感を覚えました。「大人になるってどういうこと」のアンサーとして、「子供を産むってこと」というのがあるのだとしたら、戯曲の中の整合性は取れていたと思うんですが、そのアンサーがない中で、出産というものをライフステップのひとつとして扱ったというのが、ちょっと疑問に残りました。
    一番かわいいなって思ったのが、みなさんが、マイクをそっとその前のところに返しに行く仕草で、めちゃくちゃかわいかったです。

    市原:
    言葉のセレクトが面白くて、俗物っぽい要素が入っていたのがなんか嬉しいという感じがしました。身体が動いていて、出だしで引き込まれました。
    ただ最後「大人になるってどういうこと」「大人になるってそんな大したことないわ」みたいな感じだったと思うのですが、そこに到達した嬉しさがあまりなく、それまで素晴らしかった分「なんだ」という感じがしました。私はたとえそれが間違っていたとしても、もっと作者独自の考えをみたかったです。でも言葉の選び方が面白かったなと思います。

    我妻:
    みなさんすごくチームワークがいいんだなというところを感じました。稽古もいっぱいなさってるんだと思いました。台詞もすごく伝わる言葉を選んでいるなというのと、踊りのグルーヴ感とか、歌であったり、演出的にも色々工夫なさっていると思いました。
    ただ、全体の印象でいうと、すごくスムーズにテンポで進みすぎてしまうということがあって、そこが見やすいといえば見やすいんだけれど、「(作品が)あ、終わった。」みたいな感じで、ちょっともったいないなという感じです。踊りでいったら、そういう感情の時に体の動きはどうなるんだろうか、というところを全部振付によって消してしまっているところがあって、そこが気になりました。

    乗越:
    非常にキュートな作品だと思います。特にお母さん役とドーパミン役のふたりのデュオの体のキレがすごく良かった。
    主人公以外は全員顔を白く塗って異形の姿をしている。主人公の第二次性徴の恐れが出発点になっているのはわかるものの、あそこまでの攻撃性は唐突な印象でした。なぜ彼女がそこまで恐れたりあるいは憎しみに近い感情を持っているのかの描写が不足で、いまひとつリアリティとして伝わってこなかった。第二次性徴自体は普遍的なテーマであっても、それにともなう感情は個人的なものなので、そこをもうひとつ掴みとって投げてくれたら、観客はもっと話に入れたのだろうなと思います。
    あと衣裳の色が好きでした。南国の蝶々の羽根のような毒々しい感じのものや、お母さんの腕の部分に意味もなくカラーボールが入ってるとか、すごくよかったと思います。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
    徳永:
    オーディエンス賞おめでとうございます。ただ私は辛口です。何人かの専門審査員の方からも出ていましたように、七五調の台詞とか、ラップを意識した韻の踏み方で、それは個性になっていましたが、デリケートな問題を扱っているのに、リズムを優先させるあまり、すごく雑に終わってしまっている。
    加藤さんから出産の問題の指摘がありましたけど、それも含めてこのテーマを、皆さんのやり方でストレートに受け取ると、初潮前後の思春期の女の子の一時的な心身の不安定な状態の物語、で終わっちゃうんですよ。でも本当はそうじゃなくて、女性や思春期に限定されない、人が一生抱えていく問題を扱っているんだと思うんです。さっき(キュイの講評で)話にも出た、大人も子どもも成長しない今の日本の社会の中で「大人になるってどういうこと」というのは、もう全員の問題なんです。それを扱ったにも関わらず、リズムやテンポを優先して内容を深められなかったのはすごくもったいないと思いました。
    「大人になるってどういうこと」と自分たちで立てた問いへの答えが「どうでもいいんだわ」というのも、そこに着地するのなら、なぜ彼女は引き籠もったのか、なぜ自分の体の変化に対して、あそこまで恐れや汚れみたいなものを感じたのかということとのバランスが悪いですよね。あそこまで彼女が怯えたことに対する答えとしてはあまりにも雑だし無責任でもある。
    「大人になるってどういうこと」は普遍的な問いですが、それをテーマに持ってくるのなら、新しい問いの立て方や自分たちなりの答えを表現の中に織り込まなければいけない。それが成されてなかったと思います。なので、私としては「うーんまだまだ」という感じがしました。









      


  • 2019年09月12日

    第10回せんがわ劇場演劇コンクール講評 ~キュイ『蹂躙を蹂躙』~

    ※掲載の文章は、第10回せんがわ劇場演劇コンクール表彰式の際の講評を採録・再構成したものです。

    乗越:
    非常に言葉に力があり、脚本全体に「グサッ」とくるようなセリフが多くあったのが印象的でした。僕は先に台本を読んでいたので、冒頭から、ひとりのキャラクターが3つの人格でしゃべっていることをわかった上で見ていたわけですが、観客の中には「ひとりの医者に何かをされた3人の子供の話」だと受け取ってしまう人もいるんじゃないでしょうか。もしそこをつかみ損ねると、この作品全体の(自分の頭の中と外界、森の外と内)という二重の構造の上に成り立つ部分が伝わりきらない恐れがありますね。
    内容は、個人と世界(社会)がどう関係を紡いでいくか、構築していくのか、いけるのかということ。学ぼうとしたり、馴染もうとしたり、殴りたくても「殺してはいけない」と言われたり、馴染もうとするが合わせすぎてはいけないなど、様々な要素が入ってきます。しかし最終的には「世界を殺すか」「世界に殺されるか」という非常に強い、極端と思える言葉で締めくくられる。
    最初は、そこで終わっていいのか?と思いました。しかしその切実なリアリティが、今の社会と切り結ぶ断末魔の叫びのようにも聞こえて、非常に良かったと思います。
    演出も、舞台中央に吊るされた帯状のライトが光ることで空間が区切られ、3人が一体になったり、2対1になったり、そこから抜け出て行く蜘蛛の糸のようにも見えたりする。相対的に色々な趣向が張り巡らされた作品だったと思います。

    杉山:
    すごく難解な世界だなと思いました。それと同時に、1日2日経っても、綾門くんが書いた言葉が心に残るんですよね。「人を殺してはいけない、でも世界に殺される」とか、「ここから立ち去らねばならない」「ここにいなければならない」とか、否定形で語られる言葉がまるで宗教のようでした。例えばキリスト教は「隣人を愛せよ」とか、命令形・否定形を使って言葉の強さをすごく意識していると思うんです。
    で、現代宗教なき現代に、誰にすがるのかというと、医者なんですね。医者が私に「なぜ生きているのか」「どうすべきなのか」を示す。でも、その医者でさえも殺すんだ、と。
    さらに、心理学的な感じですが「森に入って行く」という感覚も面白くて、村上春樹の「井戸の中に降りていく」に近い感覚を持っている気もしました。
    戯曲は非常に面白くて、見ながら勝手に「間接演劇」という名前をつけました。目の前で起こっている事象は、あんまり意味がない。それよりも、言葉と、起こっている「事」から、勝手に昨日、自分に起こった「事」であるとか、今社会で起こっている「事」を妄想してしまう。見ていて僕が勝手に思ったのはやっぱり登戸の事件(※)とか、8050問題(※)。他者って何者なのかとかですね・・・。
    箱庭演劇祭という、大学生がやっている演劇祭の審査員もやらせて頂いているんですけど、演劇の世界が非常に狭くて、私小説的で、閉じている。日本がものすごく閉塞していると最近感じています。この作品は、すごくその世界を上手く捉えているともいえます。
    例えば、チェーホフが描く「私」には、自己のアイデンティティの中に「私は父であると同時に親であり酒飲みである」という風に、グラデーションがあります。でも、現代の「私」というのは、8050問題・7040問題(※)と言われているように、親と子が、成長しない関係でしかない。それが日本をものすごく閉塞的にしていて、キュイさんが作った世界はまさにそれだな、と思ったんです。
    殺すか殺されるか、 0か100しかない。 0 と 1で構成されるコンピューターの中の世界が、人間の生命のグラデーションを塗りつぶしているけど、本来はそこに豊かな関係があって、チェーホフが「三人姉妹」「桜の園」で描こうとしていた人間の心の揺れみたいなものは、そこに魅力があったんだなと、逆説的にですけど、考えさせられました。
    あと、照明も面白いなと思いました。吊られているLEDが光った時に、人間の生理現象に違和感を起こさせる効果があった。照明効果というのは、夕方だから赤い光、寒そうだからブルーとか、そういうことではないんです。人間の目は、15分たたないと暗闇の中で物を見る事はできない。それと同じで、LEDが変化した時、人間は生理現象としてすぐについていけないんです。そういう生理を照明効果として入れるアイデアを僕は素晴らしいなと思いました。
    あと、この劇場はめちゃくちゃ個性豊かで、難攻不落なんですね、安藤忠雄。僕もここでやらせてもらう時には、まずこの壁を隠したいとか、バックを隠したいとか、大変な思いをします。それを、超モアレ現象を起こすバックの壁を露出させて、横に出るラインをわざと照らしたのもすごくいい。その意識がまさに「間接演劇」なんです。別の言い方をすると「脳内世界演劇」。身体が排除されて、意識の中に入り込んでくるという感覚がありました。
    逆にちょっと損だったのが、演出意図がよくわからないこと。綾門くんが作っている“場なき場の戯曲”で、どうしてこの椅子なのか、アヒルの人形をこの空間で出したのか。もっと脳内のイメージを演出できたのかなという感覚はちょっとありました。

    ※登戸の事件:2019年5月28日に川崎市多摩区登戸で発生した通り魔殺傷事件。
    ※8050問題・7040問題:2010年以降の日本に発生している長期化した引きこもりに関する社会問題。
    (上記、Wikipediaより)

    加藤:
    私が作品を見る基準として「わかる」か「わからない」かを基準にすることは、ナンセンスだと思ってます。明確なストーリーがあって、はじまりがあって終わりがあってすべてのお客様が「あ、これはこういう話だったのね」って納得して帰る作品が、いい作品だとは思ってません。むしろ私たちの人生と同じように、なんだかよくわからないし、明確なストーリーもないし、でもなんかすごくモヤモヤするし、イライラもする。時たますごい気持ちよくもなるけれども、なんだか答えがわからない(ということでいい)。で、それをものすごく突き詰めて追求していった作品が、今回のキュイさんの作品なんじゃないかな、と思っています。
    そうした作品を作るときにすごく難しいのは、「あれ今私たち置いてけぼりになってしまっているかも」という、なんとなくお客さんを置いてけぼりにしてしまう時間が、出がちなことです。この作品では他者(=世界)と個人が断絶された二項対立が描かれているので、客席と舞台が演出の意図的に断絶されるんだったらいいんですけど、その辺の機微が本当に難しい作品なんだなという風に思いました。あと、すごく照明が綺麗でした。

    市原:
    私も演劇を作っているので、自分が言ったこと全部自分に返ってくるような感じで怖いんですけど。まず台本を読ませてもらって、すごく面白いと思いました。心に残りましたし、どうしてこういうことを書いたのかということを考えるのも面白かったです。日々生きていることの空気が投影されていて、自分の思っていることと結びつけて読むことができました。
    戯曲の言葉が強いので、演出に強い何かがあっても、それに耐えうる言葉だと思うし、俳優さんも魅力的なので、演出によってもっと相乗効果があって面白くなるんじゃないかなという予感を感じました。

    我妻:
    普段は舞踏という踊りをやっていて、セリフを使わずに舞台に立つ仕事なので、皆さんがおっしゃっているようなことは言えないですが、今回、私は台本を読まずに拝見しました。その時、何か全然わかんないことが起きてるという、ちょっと自分が取り残された感がありました。しかし、要所要所に印象に残る言葉があったり、家に帰ってから「こういうことを言っていたのかな」と思って台本を読んだら、全然違う話だったので、ちょっとびっくりもしました。
    結局、純粋に思ったのが、お客様は台本を読まない状態で見せられるという条件であるから、言葉の強さや、人の体の動きというのは、本当に繊細に選ばなければいけないんだなということです。なぜなら、お客様は、見たものを使って自分で組み立て直してしまうからで、そういうところを感じた作品でした。
    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
    徳永:
    戯曲を前もって読んだ時に、主人公の抱える苛立ちとか怒りというのが非常に切実に感じられました。ですが、実際の舞台を拝見したら、ひとりの人物から分裂した3人の登場人物だと思うんですが、話のトーンがほとんど同じで、3人に分けたメリットが感じられず、切実さを相殺しあってしまったような気がしました。
    台詞の中で読んだ時も、舞台上で聞いた時も、一番印象に残ったのは「世界は親切じゃないからこうやって話をしなければならないのに、話したいこと全部話すとみんなが怒るので、僕も怒らざるを得なくて困るとずっと言っているのに、聞いてよ」という台詞でした。それは、自意識に閉じているようで、実は「外に出たい。外と繋がりたい。外とぶつかりあいたい」という気持ちを表したものだと私は理解していて、この作品の最も大事な部分ではないかと思ったんですが、上演ではそれが苛立ちとしてしか感じられず、3人の人物は苛立ちの結果の分裂にしか見えなかったところが、閉じたまま終わってしまったと感じました。










      


  • 2018年09月09日

    第9回せんがわ劇場演劇コンクール 専門審査員講評(6) 「N2/エヌツー」

    ※掲載の文章は、第9回せんがわ劇場演劇コンクール表彰式の際、専門審査員から各劇団にむけて語られた講評を採録・再構成したものです。




    ■野上絹代

    役者が一人でただ観客の前に立つ、演劇というものの原点といえる作品だなと思いました。災害を題材に、一人の俳優の目線から個人的な話が語られていてとても繊細なお芝居なのですが、なんとなく役者と観客との間のコミュニケ―ションが成立していないような気がしました。つまり向こう側で一人でやられている感じがしました。とてもセンシティブな話を扱っているのに断絶を感じるだけなのはあまり良くない気がしました。個人的な話は扱う側も観る側も難しさがあって、フィクションよりも突破しなければいけない大きな壁があると思うのですがそれを越えられていない気がしました。ただ、劇的なことをせず客前で存在するということは勇気がいるし、それが出来るのはいい事だと思います。


    ■常田景子

    今が出発点なのかなという印象を受けました。前田さんという演者の存在のありようを興味深く観ていました。そういう出演者を見つけたというのは収穫だと思いますが、そこにちょっと寄りかかってようやく成立していた、という印象が否めませんでした。手法的にはものすごく新しいものとは言えないし、やはりもう一越え、一壁、一山、越えないといけないのかなという印象を受けました。


    ■土田英生

    無垢なのか、それとも意図的にやっているのか、もともと個人のつぶやきから構成されているので理解はされにくい作品ではある。ただ、途中からすごく面白くなりました。物語化されることをとにかく拒否しているんですね。個人的な日常が断絶される様を描いてはいるんですが、物語にされるのを嫌い、演劇として、ここの場で物語化されていくことすら拒否している。非常に難しいバランスで成り立っている。例えばちょっと情緒に走りそうになると、全部それをすかしてしまったり。震災の時間や自分の生活の時間を、どれだけ物語化せずにそのまま提出できるのか、という演劇をやっていたのだと感じ、私は興奮しました。公共劇場のコンクールなんかでやらないで、自分たちでやった方がいいとも思いました。ただ、もう一つ見せることに関しての仕掛があれば、さらに面白くなるかもしれません。これからも挑戦し続けて下さい。


    ■佐川大輔

    演劇の原初的な印象を受けました。俳優が存在しお客様の前に立って何かを語る、普通の芝居にはない緊張感があり、非常に独自性が高いと思いました。普通のお芝居とは違うものをやろうとする、その勇気はすごいと思います。観客の想像力を刺激するための演出、例えば劇場にありそうな譜面台や椅子を設置すると同時に、洗濯物を干したりプロジェクターで投影していく演出、最初は想像力を掻き立てられて観ていましたが、途中からこの想像力はどこへ向うのかと思った時に、もう少しわかりたいと思いました。これは演出家、芸術家の姿勢の問題だと思うのです。自分の書いた作品や、自分達が表現していることを、観客に伝えたり共有してもらいたいのか、そうでないのかによって進む道が違ってくると思います。演出家として、人に伝えるためにレンジを広げていくべきなのか、あえて、突き進み、それがどこかで突き抜けたときに多くの人に伝わるのか?そのどちらかしかないと思います。その圧倒的なレベルにいくには大変だと思います。どちらかを選択して挑戦していくのかなと思います。


    ■熊井玲

    私は戯曲を読んでから拝見したので、どのような世界観を持ちたいかを共有しながら入ったつもりでした。作品自体はオールオープンな作品というわけではなかったと思います。俳優さんは作品への入口になりえますが、逆に俳優さんを入り口と感じられなかった場合は、もしかするとずっと疎外感を持ったまま観ていた人もいるのではないかなと思いました。また小道具が色々出ていましたが、そこから情報を得ようと観てしまうと、その意味を求めてしますぎてしまって、作品に入りづらかったかも。意味にとらわれず、あるいはそれを乗り越えるもう一つ芯が何かあれば、もっと違う所で私たちが取っ掛かりを見つけられたかもしれないと思います。6作品の中で一番異色だったかもしれないという印象で、面白かったです。


    N₂ 『桜紙』の公演詳細ページはここをクリック!
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  • 2018年09月09日

    第9回せんがわ劇場演劇コンクール 専門審査員講評(5) 「パンチェッタ」

    ※掲載の文章は、第9回せんがわ劇場演劇コンクール表彰式の際、専門審査員から各劇団にむけて語られた講評を採録・再構成したものです。





    ■野上絹代

    達者な俳優と作、演出、高い作曲能力をくだらない主題に使う、とても好感を持ちました。観劇中に何も気にならずただ観ることが出来たように思います。強いて言えば既視感を覚える演出が時に達者過ぎて鼻につくという感じです。見終わった時にやや尻すぼまりの印象がありました。


    ■常田景子

    全体的に良かったし面白かったです。最初のパセリの恩返しのところはとても面白くて、後半がそれに匹敵しないところがちょっと残念でした。今後もますます挑戦して下さい。


    ■土田英生

    最後まで全く飽きない。後半も1つのシーンとして完成されているし、ものすごく面白いと思います。ただ構成のバランスは悪いと思います。真ん中にある面接とかトンカツ屋のシーンは現実に近いトーンなのに、オープニングとラストが劇的過ぎる昔話。逆でサンドイッチした方がいい。現実世界で劇的世界を挟んだ方が腑に落ちると思います。また、転換の照明を工夫した方がいい。暗転せずに最後まで展開していってもいいと思います。むかつくくらい手練れでセンスはあるし、構成をもう少し整えたら完璧なエンターテイメントになるような気がします。


    ■佐川大輔

    手練れ感が鼻に着くとおっしゃっていましたが、僕はそこまでは思いませんでした。お客様も笑っていたし、面白かったし良かったと思います。でもそこまで達者なら、さらにもう一工夫ができたのではないかと、物足りなさを感じました。各シーンの基本的な考え方が「パロディ」なのだと思いますが、一番見せたいテーマはその手法でないと観せられないのかということです。面白かったですが、演出家のスケールをもう一歩先にのばして、もっと頭をひねってみてもよかったのではないかと思います。ほめて下さった方たちがほとんど同じことだったので、あえて辛口に言いましたが。構成がいま一つという事と、最後のシーンに向けてどうのように作っていくのか、一つ一つのシーンにどのような意味があるのかに配慮していけたら、もっと面白かったのではないかと思います。


    ■熊井玲

    ミュージカル的なものもコント的なこともあって3人のレベルがすごく揃っていて上手でした。作品もそれぞれ面白かったのですが、個人的な好みなのかもしれませんが、全部に落ちがちゃんとあるのが残念で、あれだけバリエーションがあるのなら、もっと不条理なものとか、例えばオムライスの話では、言われなくてもだいたい読めるので、あえて結末を言わずに終わらせてしまっても良かったのかなと思いました。そのような冒険があっても良いとも思います。でも本当に面白かったです。


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  • 2018年09月09日

    第9回せんがわ劇場演劇コンクール 専門審査員講評(4) 「すこやかクラブ」

    ※掲載の文章は、第9回せんがわ劇場演劇コンクール表彰式の際、専門審査員から各劇団にむけて語られた講評を採録・再構成したものです。




    ■野上絹代

    音楽や身体を駆使していて集中して観せることが出来たと思います。ただ、イメージの連鎖で創り上げていると思うのですが、それが何をしめしていて、どういうことなのかを頭で理解させようとするのではなく、腑に落ちるとさらに楽しく観られると思います。というのは、思わせぶりな、しかし理解できないことが続いてしまうと、「一体今は何を観せられているのだろう」と、こちらの意識が遠くに行ってしまうところがありました。残念だったところは、音楽のイメージを越えてくる身体がなかったところです。台詞と身体のズレから見せるディスコミュニケーションみたいのはわかりやす過ぎる気がしました。身体を使うことの面白さは、わかることを放棄してしまうほどの熱量とか、すごみとか、意味を超えたところにもあると思うのですがなんとなく歌詞や音楽のイメージに乗っかってしまっていたように思います。


    ■常田景子

    顔の表情筋も筋肉なのだなと感動しました。身体を動かすことを演劇的に見せていくにはもうひと工夫必要なのではないかと思いました。音楽の切れ目でシーンを区切っていたように思うのですが、各シーンの繋がりが曖昧な気がして、それが少し残念な気がしました。フィジカルなものを演劇でやってくのはいいと思うので、その点はとても楽しかったです。


    ■土田英生

    最初のダンスの時はどうなっちゃうのかなと思って観ていたのですが、どんどん引き込まれました。妊婦と男の会話のシーンが秀逸。描いていることは普通の会話なのですが、そこにスポーツの動きを絡めたりするのが素晴らしかった。抽象的で不条理なんですが、実際の感覚に嘘をついていないというか、手触りを持って作られていたのでものすごく腑に落ちるのですね。ただ、他のシーンには少し物足りなさを感じました。もう一工夫しなくては長く感じてしまうし、変化が欲しいと感じる場所が何カ所かありました。もっと想像力を飛ばして欲しい。その意味で最後のダンスは良かったです。


    ■佐川大輔

    とても笑わせてもらいました。俳優さんの笑顔がとても素敵でした。エンタメ性があり、ダンス、お芝居、ギャグも交えながら、照明も効果的に遊び劇的に観せている、でも伝えたいことのテーマ設定がすごくシリアスで、それをギャグの世界でやろうとしているのは、高さというか、難しいことをやろうとしているのだなと思いますが、それはある程度成功しているでしょう。ピンポン、野球、ゴルフとか、一般的に誰が観ても分かる記号性をうまく使っていて、その記号性の裏で全然違う相反することを行う事によって、この人達は馬鹿なんじゃないかなと思わせるというのは、なかなか面白いと思います。「遠くへ行きたい」というタイトルですが、希望をもってもがきながら生きている人間を戯画的に描いている。演技のスタイルに関してはわかりやす過ぎる部分もありましたが、この作品に関しては、希望とかストレートなテーマだったので、比較的相性が良かったと思います。あと、シーンの繋がりの部分の積みたて方が惜しいなと思いました。そこの構築力を工夫すれば、最後シーンの希望と絶望のループへの繋がりがより良かったと思います。また最後の希望と絶望のループでは、身体の感じが、それまでの笑えるようなポップな感じではなく、もっと違う追い込まれ方になっていたら、作品のレベルが一つ違ってくるのではいかと思いました。

    ■熊井玲

    身体と言葉のバランスが面白かったと思いました。一番おもしろかったのが妊婦さんのシーンでした。身体と言葉がぶつかり合って違う世界に連れて行ってくれたと思います。ただせっかく俳優さんが4人いて、それぞれストーリーをもっているので、それぞれに違うアプローチでぶつかり合うともっと良かったし、観たかったです。妊婦さんのシーンは音の使い方や、場所の使い方も良かったと思います。今後がとても楽しみです。


    すこやかクラブ 『遠くへいきたい』の公演詳細ページはここをクリック!
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    写真撮影:青二才晃(せんがわ劇場市民サポーター)
      


  • 2018年09月09日

    第9回せんがわ劇場演劇コンクール 専門審査員講評(3) 「ゆうめい」

    ※掲載の文章は、第9回せんがわ劇場演劇コンクール表彰式の際、専門審査員から各劇団にむけて語られた講評を採録・再構成したものです。




    ■野上絹代

    劇世界に行くまでの空気作りがとても上手で観客の心をとてもよく掴んでいたと思います。ただ劇世界に入ってからの作り込みが甘く、出来ればそこで別次元に連れて行って欲しかったです。空襲警報が鳴るシーンが一つの扉だと思ったのですが、そこからグッと入っていくことはなかったです。俳優陣が一生懸命でとても好感を持ちました。ただ、しゃべり言葉で勢いのまま行き続けてしまうと、劇作としては荒い印象を受けるので、もう少し丁寧に言葉を構築する部分があっても良いのかなと思いました。


    ■常田景子

    演技なのか素なのかよくわからない演技が好きでした。一番よかったのは、最後の方のシーンで、絵を描いたり、ものを作ったりする時の人の衝動とか、作っている時の楽しさが伝わってきて、とても元気がでました。まだまだ粗削りで、これからどこを目指していくのか興味があります。今のままだと少し荒っぽい感じがするので、今後を期待しています。


    ■土田英生

    本当のお父さんと息子が出演し、実在したおじいさんを探る手法がすごく興味深かった。けれど、それが徹底できていない気がしました。友達も出てきて同じように語ってしまうのでは、実際のお父さんが出ている意義を欠けさせてしまい、ただ面白くするためにだけお父さんを出演させたことになってしまう可能性があります。あと、ドラマとしてもやや軸がぶれている気がします。おじいさんがどうして“狂女”を描いたのかを探るところから始まるんですが、それが皆で走ったりしているうちに変わって行ってしまう。どういう演劇を作るのかを掴み、そのことに特化した方がもっと面白くなるんじゃないでしょうか?


    ■佐川大輔

    前説のお父さんのアナウンスから、お父さんの舞台登場は面白かったです。最初の掴みがとても上手だなと思いました。その後に1人ずつ出てきてお客様に自分の作品の解説を長々と始めたのも素敵で、4人の俳優さんに好感を持てました。6作品の中で一番お客様と一緒の「ライブ」をつくることに、秀でていたと思います。実のお父さんが出演するリアルな存在感が、圧倒的な説得力でこの親子三代の話の作品を支えていると思います。ラストの照明の点滅でだけで死んだおじいちゃんを想像させる演出が良かったです。また雑に思われる原因は、前半が面白すぎたのではないかと思います。というのも、お客様と一緒に芝居を作りすぎたために、後半の練習をしてきた部分になると、今まで観客に語りかけていたのが急に「舞台上だけの会話劇」になってしまった気がします。後半の求心力が弱くなってしまったのが残念です。構成として、そこが雑と思われてしまう原因だと思います。一人ずつ走るのを辞めていくシーンでは、観客にも想像がついてしまうので、そこをどのように見せていくのかが演出として、大事なポイントだと思います。そこに工夫が少しあると後半が面白くなったのではないかと思います。


    ■熊井玲

    私小説的なところが入っていて、そこで完結するのではなく最終的にクリエーションの話になっていて、その飛躍度はこれまでの作品よりすごくあったのではないかと思います。あと演劇でしかできない時間の流れや、空間をどう使うか、をすごく考えていて、最大限演劇的に見せるにはどうするのか、かなり作り込んできたところはすごくいいと思いました。面白かったです。


    ゆうめい 『家を走る』の公演詳細ページはここをクリック!
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    写真撮影:青二才晃(せんがわ劇場市民サポーター)
      


  • 2018年09月09日

    第9回せんがわ劇場演劇コンクール 専門審査員講評(2) 「ブルーエゴナク」

    ※掲載の文章は、第9回せんがわ劇場演劇コンクール表彰式の際、専門審査員から各劇団にむけて語られた講評を採録・再構成したものです。




    ■野上絹代

    女子達がはしゃぐ姿はとても良かったです。が、結局どのような話しなのかがよくわからなかったです。難解な戯曲だなと思って後から戯曲を読んだのですが、演出の問題なのかなと思いました。その場がどこで、その声が誰なのか? が整理できるとすっきりするのですが、複雑なまま演じられてしまい、そこが与えなくてよいストレスになっていたと思います。演出の役割は戯曲の世界を広げたり翻訳したりもすると思うですが、それをもう少ししてあげると戯曲が活きてくるのではないかと思いました。


    ■常田景子

    所々にはっとするような美しい台詞があったのは良かったと思います。わからないものを、わからなくても面白いと思わせるためにはもう少し工夫が必要だと思います。わからなくても面白かったね、というのは面白さが勝っていますが、面白かったけれどよくわからなかったね、ですとわからなさが勝っている。今はちょっとその状況です。その辺が少し残念でした。また頑張って下さい。


    ■土田英生

    観ていて面白かったのですが、戯曲は腑に落ちないところがありました。ヒキガエルの存在がうまく生きてないような気がします。仏の座が「結婚したい」とヒキガエルの家に来るあたりから混乱してしまいます。一人一人魅力はあるのですが、演技の質を揃えると良いのではないでしょうか?個性を揃えるという意味ではなく、今回のこの芝居を観せるためにどういう方針で演技させるかを、もう少し工夫していければ良かったのではないでしょうか?


    ■佐川大輔

    とても巨大な世界観を身近に描いているなと思いました。生と死という話を、青春を描くところから導いていくのにトライしていて素敵だなと思いました。実際に描こうとするテーマは大きいですが、台本はきちんとした4人の会話劇になっていて、巨大な世界観を掲げて描こうとしているところがすごいと思いました。演出的にも、短い場面を次々と繋げていくところにドライブ感も感じました。またドライブ感を出すために、ボーカル入りの音楽を用いて、全体を通して青春のもつ突き抜けた爽快感やみずみずしさがあり、ストレートな青春ものとして感じました。内容がわかりにくいというのも事実ですが、訳も分からず感動させてしまうところもあると思いました。同時に、台本を読んで感じたことと実際に舞台をみた時にギャップを感じました。それは演出手法のせいかと思います。情報量の多い台詞を、早口で勢いよく言うことによって、観ている側もシーンの状況が理解できないまま進んでいってしまっているように感じました。書かれている台本は普遍的なテーマのものなので、もっと間口を広げてお客様伝わるようにしていけば良かったのではないかと思いました。公共劇場で仕事をする時に、なんらかの社会性をどのように担保していくのかを演劇人は考えていく必要があるのではないかと思っています。


    ■熊井玲

    先に戯曲を読んで面白い世界観だと思いました。少し時間と空間がごちゃごちゃした部分があったのかなと思います。戯曲で思っていた時間の流れが劇場で体感として感じられなかったのが残念でした。マイムの情報量が多かったのではないかと思います。それらをもっとそぎ落とせば台詞がたってくるのではないかと思います。いい台詞がばちっとハマらないまま、流れていってしまったのがもったいなかったと思います。台詞が立つような、ばちっとはまるような置き方の演出が必要だと思いました。


    ブルーエゴナク 『おとずれないひのために』の公演詳細ページはここをクリック!
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    写真撮影:青二才晃(せんがわ劇場市民サポーター)