2014年11月27日
『音楽劇「瀧廉太郎物語」+アフターコンサート』観劇レポート
11/7~10に行われた「桐朋学園芸術短期大学創立50周年記念事業/調布市せんがわ劇場地域連携事業『音楽劇「瀧廉太郎物語」+アフターコンサート』」の様子をライターであり、市民サポーターでもある才目さんによるレポートでお届けします。
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2014年11月7日から10日まで、
桐朋学園芸術短期大学がここ仙川の地に開設されて50周年を迎えるのを記念して、
『音楽劇「瀧廉太郎物語」(作・演出:柴田千絵里)+アフターコンサート』が上演されました
日本の近代音楽の扉を開いた瀧廉太郎の生涯を、ピアノと歌の生演奏をともなう「音楽劇」として描き、
劇の後には「アフターコンサート」もお楽しみいただくという贅沢な構成です。
作・演出の柴田千絵里さんをはじめ、出演者・スタッフのほぼ全員が同大で学び、社会で活躍する俳優・音楽家たち。
音楽と演劇の実践教育に専門特化した同大の特色を存分に活かし、
若さとスピード感あふれる見応えたっぷりの舞台を創り上げました。
ロビーには瀧廉太郎ゆかりの大分県竹田市の紹介コーナーを設け、
銘菓「荒城の月」を販売したほか、公演には竹田市の首藤市長も駆けつけお祝いしてくださいました。
「劇と教育」「人と人との絆」「地域との連携」…。 舞台芸術という文化を通して様々な交流と結実をもたらす、たいへん意義深い公演となりました。
●単なる伝記劇ではない「音楽劇」の創造を
瀧廉太郎は、『荒城の月』の作曲者、あるいは『花』や『お正月』、『箱根八里』など誰にも愛された唱歌の作曲者として知られます。
あの、メガネをかけたお洒落で真面目そうな青年、というイメージが浮かぶ人も多いでしょう。
最初に特筆したいのは、この劇が「瀧廉太郎の生涯」を伝記劇として紹介するだけにとどまらないということです。
観る人は、劇の根底にもっと深い問題意識が息づいていることに気づきます。
桐朋学園芸術短期大学学長であり演出家として教育指導に当たる越光照文氏は次のように語ります。
「明治という時代、日本が近代国家の仲間入りをしようとする中で、
私たちの先人は近代ヨーロッパに追い付き、追い越そうと、あらゆる分野で苦闘していました。
“音楽”という分野でも同じです。
今に生きる私たちには、そうした先人たちの苦労に思いを馳せ、現代を見つめながら、確かな未来を構想する責任があるのです」。
監修を担当された同大教授 松井康司氏(音楽専攻主任)も問題意識を共有してこのように語ります。
「私たちの先人がどれほどの努力をして日本オリジナルの音楽を創ろうとしたか。
この劇は、瀧廉太郎という人物を通して、卒業生たちが一生懸命に学び考えた成果を、
楽曲の生演奏と歌唱を加えて、広く楽しく観ていただこうと生まれた音楽劇なのです」。
音楽専攻と演劇専攻を擁する桐朋芸術短大ならではの教育土壌によって育まれ、創造された「音楽劇」。桐朋のオープンキャンパスや「サンデー・マティネ・コンサート plus」で試演・上演を重ね、好評を博してきた舞台といいます。
今回、同大創立50周年を記念する事業の嚆矢(こうし)を飾る企画として、内容をさらにブラッシュアップしてせんがわ劇場での公演が決定しました。
●現代と通底する巧みな「仕掛け」
瀧廉太郎は士族の出で、明治12年(1879年)に生まれました。
早くから音楽に非凡な才能を発揮し、
15歳という史上最年少で東京音楽学校(現 東京芸大音楽学部)に合格。
卒業後、「国楽創造」の使命を帯び、21歳でドイツ留学を果たすも、わずか数ヶ月で肺結核に倒れます。
強制帰国の後、明治36年(1903年)、瀧は弱冠23歳という若さで無念の死を遂げてしまうのです。
あまりに短い人生を駆け抜けるように夭折した天才作曲家、瀧廉太郎が遺した音楽。
誰もがそのメロディーを口ずさむことができるでしょう。
「お正月には凧あげて~♪ 独楽をまわして遊びましょう~♪」の『お正月』、それに『鳩ぽっぽ』や『雪やこんこん』…。
瀧は留学する前にこれらの「幼稚園唱歌」を作曲していました。
作詞をしたのは、東京音楽学校で瀧の2年先輩だった東くめという女性です。
劇の時代設定は、現代に近い昭和38年。
東京オリンピックを翌年に控え、高度成長を謳歌するかのように、巷に流行歌が溢れていた時代です。
老境を迎えた東くめが若き日の瀧を回想する形でこの劇は始まります。
この設定が本作の「巧い」ところ。
つまり、「老・東くめ」という人物を媒介することによって、「劇」と「現代」が通底し、今を生きる私たちに「問い」を投げかけるのです。
この「枠組み」のおかげで、本作はまったく時代の古さを感じさせません。
それどころか、若者たちは舞台の上で存分にエネルギーを炸裂させ、物語はスピーディかつダイナミックに展開していきます。
観客は清々しさすら感じながら劇に引きこまれていきました。
●人々と交流する中で天賦の楽才を伸ばす
劇は、幼年時代に始まり、人々との交流が瀧を成長させていく様を生き生きと描きます。
年長の従兄・瀧大吉のもとに身を寄せた瀧は、最年少で音楽学校に入学するや、
学生服の一番上のボタンだけを留めるという「お洒落ルック」で注目を集め、良き友、良き師、良きライバルに恵まれます。
親友の鈴木毅一、先輩の東くめ、厳格な幸田延(のぶ)教授、その妹で瀧のライバルとなる幸田幸(こう)…。
彼らに囲まれながら、瀧は人一倍勉学に勤しみ、天が与えた楽才を伸ばしていくのです。
やがて、瀧は東くめや鈴木毅一らとともに、唱歌の革新に取り組みます。
それまでわが国の童謡・唱歌の多くは、賛美歌やスコットランド民謡など、外国で作られたメロディーにいかにもお役人が作った文語調の堅苦しい歌詞を付けたものでした。
「幼い子どもたちが自然に口ずさめる唱歌を音楽教育の教材にしたい」。
明治33年、時代が20世紀へ移ろうとしている時、「春のうららの隅田川~♪」と歌う『花』を含む日本初の歌曲集、組歌『四季』が生まれます。
続いて、『ほうほけきょ』や『雪やこんこん』、『お正月』など、日本の春夏秋冬を「語り言葉」で描く『幼稚園唱歌』を完成させるのです。
場面やストーリーに合わせてピアノ演奏とソプラノ独唱が効果的に挿入されます。
瀧作曲の楽曲や時代に関連する曲が演奏され、出演者も歌い、時には踊り、作曲する時はオルガンを弾きます。
音楽の楽しさ、ワクワクする青春の輝きを描くのに、生の演奏ほど力のあるものはありません。
舞台装置は中央をアーチ型に盛り上げた立体的な構造で、上方と左右にサブの舞台を設え、思わぬところから役者が登場したりして飽きさせません。
瀧の才気煥発ぶりが、素晴らしい歌と演奏、躍動的な身体表現によって、舞台からあふれ出るように表現されていくのです。
ちなみに、俳優は一人何役もこなしており、舞台裏は早着替えと次の出場所への駆け込みで、息つく暇もなかったことでしょう。
場面転換ごとの終始慌ただしい様子さえも、微笑ましいエネルギー感として観客に伝わってきます。
●名曲『荒城の月』完成からドイツ留学へ
教材唱歌の革新で満足しない滝は、いよいよ真正面から西洋音楽に戦いを挑みます。
「日本人に馴染みやすいヨナ抜き音階※ではなく、西洋音楽に比肩できる本格的な作曲法を実践したい」。(※ヨナ抜き音階とは、わらべ唄や民謡など、四度(ファ)と七度(シ)の音がない日本特有の音階のこと)
寝食を忘れ、苦闘の結果生まれたのが、『荒城の月』(作詞:土井晩翠)です。
「春高樓の花の宴~♪ めぐる盃かげさして~♪」
日本的情緒を西洋の音楽技法で表現し、日本近代音楽の扉を開いた名曲中の名曲です。
その完成を機に、明治34年4月、瀧は勇躍ドイツへ。バッハやメンデルスゾーンゆかりの音楽の都・ライプツィヒ音楽院へ、男子としては日本初の留学生として3年間の勉学の旅に出かけます。
しかし、入学後わずか数ヶ月、厳しいドイツの冬が迫る頃、瀧の身体を結核菌が蝕みます。
当時、結核は不治の病。
入院、退学、強制送還…。あまりに過酷な運命が、瀧の「夢」を断ち切るのです。
帰国の船上、ロンドン・テムズ河口に停泊中、瀧は土井晩翠と最初で最後の出会いを果たします。
『荒城の月』作曲を感謝して、土井晩翠が失意の瀧に贈った言葉。
「月はね、瀧さん、静かに美しく輝く。しかし、自分で輝いている訳じゃない。太陽の光をもらい、輝いている。人は、誰も、一人では輝けない…」
この劇の主題とも言えるセリフが観客の胸にしみます。
●1+1を10にもする音楽と演劇のコラボ
本作の優れた点は、これまであまり知られてこなかった晩年の瀧の内面に鋭く迫ったことです。
大分の実家に戻った瀧は、病に伏しながら最後の力を振り絞ります。
「この世に生きた証しを音楽として残したい…」。
残されたその曲の名は、『憾』。「うらみ」と読みます。いかに瀧が無念であったかがしのばれます。
劇の最後、無声のピアノ独奏曲『憾』が演奏される中、瀧は自らの激情を楽譜に見立てた白いキャンバスにぶつけます。
近年「稀代の傑作」として再評価の機運高まるこの名曲を、死力を尽くして作曲しようとする中で、まさにその曲が激しく演奏される、この上ない「リアル感」。
もはや演奏は「説明」ではありません。瀧の内面をダイレクトに伝える、言葉を超えた舞台表現なのです。
観客は瀧の想いに共感の涙をこぼし、劇場全体に感動の輪が広がり、拍手が鳴りやみませんでした。
監修の松井先生は「音楽劇」の魅力についてこう語ります。
「音楽と演劇のコラボレーションは1+1を2ではなく、5にも10にもする力を持っています」。
全編にわたって生の演奏と歌唱が物語に密着しながら劇世界を構築していく本作は、その見事な実践であると同時に、舞台芸術の新たな可能性をも垣間見せた、若さみなぎる秀作といえるでしょう。
●
続いて「アフターコンサート」が開催され、劇中にも登場した幸田延が作曲した『ヴァイオリン・ソナタ』が演奏されました。
幸田延は文豪・幸田露伴の妹で、日本初の音楽留学生として西洋音楽を学び、帰国後、瀧の師となった「音楽教育のパイオニア」として知られる人物です。門下には瀧のほか、後に『蝶々夫人』で世界的なオペラ歌手になった三浦環がいます。
演奏された『ヴァイオリン・ソナタ変ホ長調』(明治28年)は、日本人が初めて作曲した器楽曲とされます。日本の音楽の黎明期にこうした大作が作られていたことはいまだに広く知られていない事柄です。
(取材・文/ライター 才目)
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2014年11月7日から10日まで、
桐朋学園芸術短期大学がここ仙川の地に開設されて50周年を迎えるのを記念して、
『音楽劇「瀧廉太郎物語」(作・演出:柴田千絵里)+アフターコンサート』が上演されました
日本の近代音楽の扉を開いた瀧廉太郎の生涯を、ピアノと歌の生演奏をともなう「音楽劇」として描き、
劇の後には「アフターコンサート」もお楽しみいただくという贅沢な構成です。
作・演出の柴田千絵里さんをはじめ、出演者・スタッフのほぼ全員が同大で学び、社会で活躍する俳優・音楽家たち。
音楽と演劇の実践教育に専門特化した同大の特色を存分に活かし、
若さとスピード感あふれる見応えたっぷりの舞台を創り上げました。
ロビーには瀧廉太郎ゆかりの大分県竹田市の紹介コーナーを設け、
銘菓「荒城の月」を販売したほか、公演には竹田市の首藤市長も駆けつけお祝いしてくださいました。
「劇と教育」「人と人との絆」「地域との連携」…。 舞台芸術という文化を通して様々な交流と結実をもたらす、たいへん意義深い公演となりました。
●単なる伝記劇ではない「音楽劇」の創造を
瀧廉太郎は、『荒城の月』の作曲者、あるいは『花』や『お正月』、『箱根八里』など誰にも愛された唱歌の作曲者として知られます。
あの、メガネをかけたお洒落で真面目そうな青年、というイメージが浮かぶ人も多いでしょう。
最初に特筆したいのは、この劇が「瀧廉太郎の生涯」を伝記劇として紹介するだけにとどまらないということです。
観る人は、劇の根底にもっと深い問題意識が息づいていることに気づきます。
桐朋学園芸術短期大学学長であり演出家として教育指導に当たる越光照文氏は次のように語ります。
「明治という時代、日本が近代国家の仲間入りをしようとする中で、
私たちの先人は近代ヨーロッパに追い付き、追い越そうと、あらゆる分野で苦闘していました。
“音楽”という分野でも同じです。
今に生きる私たちには、そうした先人たちの苦労に思いを馳せ、現代を見つめながら、確かな未来を構想する責任があるのです」。
監修を担当された同大教授 松井康司氏(音楽専攻主任)も問題意識を共有してこのように語ります。
「私たちの先人がどれほどの努力をして日本オリジナルの音楽を創ろうとしたか。
この劇は、瀧廉太郎という人物を通して、卒業生たちが一生懸命に学び考えた成果を、
楽曲の生演奏と歌唱を加えて、広く楽しく観ていただこうと生まれた音楽劇なのです」。
音楽専攻と演劇専攻を擁する桐朋芸術短大ならではの教育土壌によって育まれ、創造された「音楽劇」。桐朋のオープンキャンパスや「サンデー・マティネ・コンサート plus」で試演・上演を重ね、好評を博してきた舞台といいます。
今回、同大創立50周年を記念する事業の嚆矢(こうし)を飾る企画として、内容をさらにブラッシュアップしてせんがわ劇場での公演が決定しました。
●現代と通底する巧みな「仕掛け」
瀧廉太郎は士族の出で、明治12年(1879年)に生まれました。
早くから音楽に非凡な才能を発揮し、
15歳という史上最年少で東京音楽学校(現 東京芸大音楽学部)に合格。
卒業後、「国楽創造」の使命を帯び、21歳でドイツ留学を果たすも、わずか数ヶ月で肺結核に倒れます。
強制帰国の後、明治36年(1903年)、瀧は弱冠23歳という若さで無念の死を遂げてしまうのです。
あまりに短い人生を駆け抜けるように夭折した天才作曲家、瀧廉太郎が遺した音楽。
誰もがそのメロディーを口ずさむことができるでしょう。
「お正月には凧あげて~♪ 独楽をまわして遊びましょう~♪」の『お正月』、それに『鳩ぽっぽ』や『雪やこんこん』…。
瀧は留学する前にこれらの「幼稚園唱歌」を作曲していました。
作詞をしたのは、東京音楽学校で瀧の2年先輩だった東くめという女性です。
劇の時代設定は、現代に近い昭和38年。
東京オリンピックを翌年に控え、高度成長を謳歌するかのように、巷に流行歌が溢れていた時代です。
老境を迎えた東くめが若き日の瀧を回想する形でこの劇は始まります。
この設定が本作の「巧い」ところ。
つまり、「老・東くめ」という人物を媒介することによって、「劇」と「現代」が通底し、今を生きる私たちに「問い」を投げかけるのです。
この「枠組み」のおかげで、本作はまったく時代の古さを感じさせません。
それどころか、若者たちは舞台の上で存分にエネルギーを炸裂させ、物語はスピーディかつダイナミックに展開していきます。
観客は清々しさすら感じながら劇に引きこまれていきました。
●人々と交流する中で天賦の楽才を伸ばす
劇は、幼年時代に始まり、人々との交流が瀧を成長させていく様を生き生きと描きます。
年長の従兄・瀧大吉のもとに身を寄せた瀧は、最年少で音楽学校に入学するや、
学生服の一番上のボタンだけを留めるという「お洒落ルック」で注目を集め、良き友、良き師、良きライバルに恵まれます。
親友の鈴木毅一、先輩の東くめ、厳格な幸田延(のぶ)教授、その妹で瀧のライバルとなる幸田幸(こう)…。
彼らに囲まれながら、瀧は人一倍勉学に勤しみ、天が与えた楽才を伸ばしていくのです。
やがて、瀧は東くめや鈴木毅一らとともに、唱歌の革新に取り組みます。
それまでわが国の童謡・唱歌の多くは、賛美歌やスコットランド民謡など、外国で作られたメロディーにいかにもお役人が作った文語調の堅苦しい歌詞を付けたものでした。
「幼い子どもたちが自然に口ずさめる唱歌を音楽教育の教材にしたい」。
明治33年、時代が20世紀へ移ろうとしている時、「春のうららの隅田川~♪」と歌う『花』を含む日本初の歌曲集、組歌『四季』が生まれます。
続いて、『ほうほけきょ』や『雪やこんこん』、『お正月』など、日本の春夏秋冬を「語り言葉」で描く『幼稚園唱歌』を完成させるのです。
場面やストーリーに合わせてピアノ演奏とソプラノ独唱が効果的に挿入されます。
瀧作曲の楽曲や時代に関連する曲が演奏され、出演者も歌い、時には踊り、作曲する時はオルガンを弾きます。
音楽の楽しさ、ワクワクする青春の輝きを描くのに、生の演奏ほど力のあるものはありません。
舞台装置は中央をアーチ型に盛り上げた立体的な構造で、上方と左右にサブの舞台を設え、思わぬところから役者が登場したりして飽きさせません。
瀧の才気煥発ぶりが、素晴らしい歌と演奏、躍動的な身体表現によって、舞台からあふれ出るように表現されていくのです。
ちなみに、俳優は一人何役もこなしており、舞台裏は早着替えと次の出場所への駆け込みで、息つく暇もなかったことでしょう。
場面転換ごとの終始慌ただしい様子さえも、微笑ましいエネルギー感として観客に伝わってきます。
●名曲『荒城の月』完成からドイツ留学へ
教材唱歌の革新で満足しない滝は、いよいよ真正面から西洋音楽に戦いを挑みます。
「日本人に馴染みやすいヨナ抜き音階※ではなく、西洋音楽に比肩できる本格的な作曲法を実践したい」。(※ヨナ抜き音階とは、わらべ唄や民謡など、四度(ファ)と七度(シ)の音がない日本特有の音階のこと)
寝食を忘れ、苦闘の結果生まれたのが、『荒城の月』(作詞:土井晩翠)です。
「春高樓の花の宴~♪ めぐる盃かげさして~♪」
日本的情緒を西洋の音楽技法で表現し、日本近代音楽の扉を開いた名曲中の名曲です。
その完成を機に、明治34年4月、瀧は勇躍ドイツへ。バッハやメンデルスゾーンゆかりの音楽の都・ライプツィヒ音楽院へ、男子としては日本初の留学生として3年間の勉学の旅に出かけます。
しかし、入学後わずか数ヶ月、厳しいドイツの冬が迫る頃、瀧の身体を結核菌が蝕みます。
当時、結核は不治の病。
入院、退学、強制送還…。あまりに過酷な運命が、瀧の「夢」を断ち切るのです。
帰国の船上、ロンドン・テムズ河口に停泊中、瀧は土井晩翠と最初で最後の出会いを果たします。
『荒城の月』作曲を感謝して、土井晩翠が失意の瀧に贈った言葉。
「月はね、瀧さん、静かに美しく輝く。しかし、自分で輝いている訳じゃない。太陽の光をもらい、輝いている。人は、誰も、一人では輝けない…」
この劇の主題とも言えるセリフが観客の胸にしみます。
●1+1を10にもする音楽と演劇のコラボ
本作の優れた点は、これまであまり知られてこなかった晩年の瀧の内面に鋭く迫ったことです。
大分の実家に戻った瀧は、病に伏しながら最後の力を振り絞ります。
「この世に生きた証しを音楽として残したい…」。
残されたその曲の名は、『憾』。「うらみ」と読みます。いかに瀧が無念であったかがしのばれます。
劇の最後、無声のピアノ独奏曲『憾』が演奏される中、瀧は自らの激情を楽譜に見立てた白いキャンバスにぶつけます。
近年「稀代の傑作」として再評価の機運高まるこの名曲を、死力を尽くして作曲しようとする中で、まさにその曲が激しく演奏される、この上ない「リアル感」。
もはや演奏は「説明」ではありません。瀧の内面をダイレクトに伝える、言葉を超えた舞台表現なのです。
観客は瀧の想いに共感の涙をこぼし、劇場全体に感動の輪が広がり、拍手が鳴りやみませんでした。
監修の松井先生は「音楽劇」の魅力についてこう語ります。
「音楽と演劇のコラボレーションは1+1を2ではなく、5にも10にもする力を持っています」。
全編にわたって生の演奏と歌唱が物語に密着しながら劇世界を構築していく本作は、その見事な実践であると同時に、舞台芸術の新たな可能性をも垣間見せた、若さみなぎる秀作といえるでしょう。
●
続いて「アフターコンサート」が開催され、劇中にも登場した幸田延が作曲した『ヴァイオリン・ソナタ』が演奏されました。
幸田延は文豪・幸田露伴の妹で、日本初の音楽留学生として西洋音楽を学び、帰国後、瀧の師となった「音楽教育のパイオニア」として知られる人物です。門下には瀧のほか、後に『蝶々夫人』で世界的なオペラ歌手になった三浦環がいます。
演奏された『ヴァイオリン・ソナタ変ホ長調』(明治28年)は、日本人が初めて作曲した器楽曲とされます。日本の音楽の黎明期にこうした大作が作られていたことはいまだに広く知られていない事柄です。
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この記事へのコメント
こういう素晴らしい劇は広く各地で公演されるといいですね。これからを担う子供たちや昔を懐かしむお年寄りにも観てもらえるといいですね。
Posted by 廉子 at 2014年12月07日 03:24
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