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2019年09月25日

受賞者インタビュー(2)  世界劇団 本坊由華子さん(オーディエンス賞)

・今回参加されて、他の団体の上演もご覧になったかと思うのですが、せんがわ劇場の演劇コンクール全体についての印象はいかがでしたか?
劇団速度の野村君とは去年も利賀演劇人コンクールで一緒になっていたので元々すこし面識があったりしました。
全体的な印象としては、どうなんだろう、「コンクールって難しいな」とすごいいつも思うんです。
いろんな演劇のコンクールがあると思うんですけど、そのコンクールで選ばれたものが今後の演劇界にかなり影響を及ぼすと思うんです。たとえば「このコンクールだったらこういった作品が選ばれた」という事実があると、「そういった作品が評価される演劇界」という風に関係者が認識する、いわばひとつの指針になると私は思っていて。そういった指針自体がコンクールの特色でもあると思うんです。

たとえば去年参加した利賀演劇人コンクールは、本当にまさにハイ・アートというか、かなり尖った表現を評価していくものだったりします。

そうした文脈を踏まえると、今回のせんがわ劇場演劇コンクールがグランプリに公社流体力学さんを選んだということ自体が私にとってはすごく大事件なんですよね(笑)。
私は公社流体力学さんすごく大好きで、もし私が観客だったら迷わず観客投票も公社流体力学さんに入れたと思うんです。

たとえば一口に「演劇」と言った時にすごく小難しくて、「こういうことを考えています」というか「こういう表現の新しい形態を突き詰めています」というタイプのものもあるじゃないですか。

でも公社流体力学さんはそうではなくて、どっちかというとすごく根源的な、「好きなもの(美少女)をどうやって好きって言うか」というたったひとりのパッションだけで舞台に立っていらっしゃって。そういったものが選ばれることがいかに素晴らしいことなんだろう!っていう(笑)。

演劇の根源というか、専門審査員の杉山至さんは公社流体力学さんの作品をして「シェイクスピアもかくやあらん」って仰っていて、私も同じ考えなんですけど「演劇ってここから生まれたんだろうな」みたいなものを感じて。

演劇として時代の流れを遡っていくというか、パッションとか熱量とか、その場で人間が生で立っていることの美しさみたいなものを根源的に評価してくれたというのが、私にとってはすごくありがたいコンクールでした。

そこに立ち戻って、ちゃんとそれをグランプリとして評価してくれるコンクールがあるというのは、私にとってはとてもうれしいことでした。

私もどちらかというと時代に合わせて細分化していく方ではなくて、「人間のパッションが目の前にあることの美しさ」みたいなことの方が演劇だと思っているので。

それって全然評価されないというか、これは私の被害妄想かもしれないんですけど「それってかっこよくないじゃん」みたいな空気がなんとなくあるような気がしていて。
「そうじゃなくない?」って自分は思っているんですけど、今回グランプリとして生身の人間として美しさが一番立ち上っていた公社流体力学の彼が評価されたので、「このコンクールはすごくいいコンクールだな」って思いました(笑)。


・今回オーディエンス賞を獲得され、実際に上演をされて本坊さんご自身は舞台にも立たれましたが、舞台の上からみて客席の印象はいかがでしたか?
お客さんの雰囲気としては本当にいろんな方々が混ざっているいい空間だと思いました。もちろんハイ・アートを突き詰めているような専門家の方もいらっしゃれば、一般のお客様もいらっしゃったりして。いいバランスなのかな、と思いました。

客席が演劇の専門家だけで埋め尽くされることは全然豊かではないと私は思っているんです。演劇を初めて観に来る人が、何割かは絶対混ざっていた方がいい。
そういう意味で、あの客席は一般社会がちゃんとあったな、という風に思います。それは舞台上から客席の方を見ていても、居心地のいいものでした。


・来年には受賞記念公演も控えます。今後の活動予定や創作のプラン、展望があればぜひ教えてください。
元々2020年の2月から3月まで、愛媛と広島のアステールプラザ、そして北九州枝光のアイアンシアターというところで三都市ツアーを予定していました。
その三都市+せんがわ劇場ということで、4都市ツアーとして近々情報を公開しようかなと思っています。今後はそのツアー作品に向けて創作を進めていくことになると思います。


・今後コンクールのファイナリストとしてせんがわ劇場に関わる中で、特にチャレンジしてみたいことはありますか?
せんがわ劇場さんもアウトリーチ事業の中で不登校の子に向けて演劇のワークショップを行ったり障害をもつ方たちと一緒に演劇をつくったりされていると説明会の際に伺ったんですが、実は私たち自身も愛媛で患者さんや不登校の子供に向けて演劇を使ったコミュニケーションワークショップを行ったりしているんです。

また自分たちが日ごろ関わっている精神障害者の方たちと演劇を作品をつくりたいという希望もかねてからありました。

もちろん愛媛からなのでせんがわ劇場さんの事業に頻繁には参加できないのですが、せんがわ劇場さんがどういった活動をされているのかを勉強させて頂いて、せんがわ劇場だけでなく愛媛のアウトリーチ事業にも繋がるようなことをさせて頂きたいなと思っています。

伺っている中だけでもかなり興味のあるアウトリーチ事業がせんがわ劇場さんには沢山ありまして、自分たちの劇団関係者にも東京在住の人間がいるので、彼らが今後せんがわ劇場さんと交流していく中でアウトリーチのノウハウやコンセプトについていろいろ学ばせていただきたいなと思っています。


・ありがとうございます。最後に、来年の受賞記念公演についての意気込みをお聞かせください。
そうですね、今回の作品を通じて「世界劇団ってこういう表現だ」「世界劇団の演劇ってこういうものだ」ということを、私は完璧に言語化できるようになったんです。

そうしてより明確になった自分たちの強みやこれまでに形作ってきた表現形態と、演劇で伝えられるテーマやメッセージというものをどちらも両立できるような作品を、必ず持っていきますので、ぜひ観に来て頂きたいなと思っています!




【世界劇団 プロフィール】
医師と医学生の劇団。
代表の本坊由華子は2015年に四国劇王と中国劇王を獲得。2017年に松山・広島・北九州の三都市でツアーを実施し、2018年には利賀演劇人コンクールにて観客賞2位を受賞、松山・東京・三重で三都市ツアーを敢行した。作品創作のみならず、精神科領域で演劇の可能性を模索中。  


  • 2019年09月24日

    受賞者インタビュー(1)  世界劇団 本坊由華子さん(オーディエンス賞)

    ・オーディエンス賞を受賞されての、今の率直なご感想はいかがでしょうか。
    単純に嬉しい気持ちがありますが、グランプリを獲りたかったなというちょっと悔しい気持ちもあり、なにも引っかからないよりかは良かったかなと思っています。


    ・世界劇団さんは愛媛を拠点に活動され、医学生の方々を中心にされているとのことですが、普段活動されている時のテーマや、演劇創作におけるコンセプトについて教えてください。
    私たちは地方で活動しているということもありまして、周りに他に演劇をしている人たちがたくさんいるわけではないので、それぞれの個性みたいなものが熟成化されやすいのかなとは思います。

    私たちの創作に関してのテーマなんですが、元々演劇で食べていくことを目標としていなくて、どちらかというと本業の職業だったり学校生活をきちんとこなしながら創作をすることによって、文化芸術というものがそもそも人間の生活の豊かさみたいなものを形作るものだと考えています。仕事とか勉強があるからこそ演劇活動でも力が発揮できるというか、それが生活の豊かさをもたらすという方向に向きやすいのかなと思います。

    もう一つ、単純に劇団に関わるそれぞれが本業の方でかなり忙しく、稽古時間も制約される中でどうやって創作のための時間を捻出していくのか、稽古のスケジュールを合わせていくのかということに関してかなりシビアな状況なので、体力的にも精神的にも追いやられるんです。

    たとえば古典的な演劇の作り方で言うところの「演出家が俳優を追い込む」みたいなことがありますよね。それはもちろんパワハラにつながりかねない極限状態まで追い込んで追い込んで、追い込んだ上でベストパフォーマンスを叩き出すという方法が、でも私は現にあると思っているんです。

    その意味で、それぞれのシビアな生活の中で、ぎりぎりの極限状態に追い込まれた時に演劇創作でもベストパフォーマンスが叩き出されるという説を信じているんです。

    演出家によるパワハラという形ではなくても、たとえば病院での当直がずっと続いていたり学校のテストが続いている中で本番があるという状況は、ある意味ではそれは人間が生活の中でギリギリの極限状況に追い込まれるということにはなるので、いわば健全な形での追い込まれ方をして、それがベストなパフォーマンスを叩き出すという風に考えています。

    仕事とか勉強がある中で演劇をしていた方が、私たちはよりよいパフォーマンスができるんじゃないかと。これは世界劇団の生活スタイルであり、創作スタイルの一つでもあるのかなという風には考えています。


    ・今回作品に参加された方々も、みなさん基本的には本業を別に持っていらっしゃるんですね。
    そうです、同じ病院で働く精神科医であったり医学生だったりして、コンクールが終わったらすぐにテスト勉強をしていたりとかしていて(笑)。劇団員は基本的にはみんな同じ大学の出身者ですね。


    ・今回上演された『紅の魚群、海雲の風よ吹け』について、作品のコンセプト、テーマについてあらためてお聞かせください。
    私たちは結構いろんなコンクールに出ていて、その中でここ3年くらいは毎年ツアーを回しているんです。そうしていろんなコンクールに出場していく中で「私たちの表現とは何か」ということだったり、「私たちにとって演劇は何か」ということを提示しなければならないところに来ているという思いが個人的にありました。
    30歳になる前までに「世界劇団の演劇とは何なんだ」ということを提示していかなければならないと思っていました。

    今回コンクールに参加するにあたって、自分のオリジナル作品でもよいということと、上演審査であるということで、「私たちの特徴はこれだ」というやりたいことを絶対にやるということだけを決めて作った作品です。
    身体表現だったり、言葉のリズムだったり、歌とか、空間の演出とか、わたしたちの強みをかなり凝縮して出そうとした作品でした。

    テーマとしては女性が生まれてからライフステップを踏んでいく中での人間的な成長であったり、女性としてのステップアップを描けたらと思っていました。

    でも講評でも言われたように、やっぱり自分たちのやりたいことをやるという演出的な部分でのこだわりが強いあまりにテーマの部分が若干ないがしろになってしまった部分があったんだなということは思いました。

    演出的な身体表現などには大変こだわりをもって創作出来たとは思うんですが、ウエイトの大きな部分が演出で占められてしまった分、「何を伝えたいのか」という演劇的なメッセージの部分ではテーマが発揮されずに終わってしまい、もっと深いところまで行けたはずなのにちょっと惜しいところがあったのではないかと個人的には思います。


    ・作品におけるテーマの描き方というのはまさに講評会でも専門審査員の方々から言及された部分だったかと思うのですが、今回の講評を受けていまどのようにお考えですか?
    たしかに専門審査員の方々の仰ることはすごくよくわかるんです。
    特に徳永さんであったり加藤さんから仰っていただいた中に、女性がライフステップを上がっていく中で「出産」というのが当たり前のものとして描かれることに対して引っかかるところがあるというご意見がありましたが、これはとてもよく分かるんです。
    ただ私自身「子供が生まれる」ということに関しては学生のころからずっと書き続けてきたテーマであったんです。

    その中で「出産」という部分に関して、審査員の方々が社会的・個人的な意味合いにおいてデリケートなもので、女性のライフステップの中で必ずしも必要ではないというとらえ方をされたことに関してすごく分かるんですけど、私としてはどちらかというと杉山さんが仰っていたような”サイエンスポエム”としての「出産」という意味だったんです。

    たとえば「卵子と精子が合体して生命体が誕生する」という文章があったなら、それはどんな人でもある種のサイエンスポエムとしてみなさん認識すると思うんですね。

    ただそれが「出産」という言葉になるとそれはサイエンスポエムではないのだな、という風に思いました。

    私個人としては「卵子と精子が合体して生命体が誕生する」という言葉も「出産」という言葉もどちらもサイエンスポエムとしてこれまで5~6年書いてきたものだったんですけれど、「出産」という言葉に関しては、ある種個人的な事象として、例えば出産をしないという選択をされた女性としての社会的な感情が乗っかる言葉なのだな、と思いました。

    これはそういう世の中になってきたというか、社会が変わってきたんだなという印象を受けました。

    私としては「出産」という言葉に関しては個人的に大きくは印象が変わることなくサイエンスポエムとしてずっと描いてきたんですが、たぶんここ数年そういうことに関して周りがかなりデリケートになってきたのだな、それに対して発言していいという空気が高まってきたのだろうな、と思いました。どちらかと言うとこれは私自身の変化というより時代の変化だなと思いました。

    なのでそれをもっとデリケートに扱った方がいいとは思うんですが、なんというか、その言葉をデリケートに扱ったからと言って問題が解決するわけではないと思っています。

    たぶん5年、10年前にはこの戯曲に対してそういったご意見はいただかなかったと思うし、あるいは5年、10年後にこの戯曲を上演したらもっと辛辣なお言葉を浴びせられるのかもしれません。

    私は全部サイエンスポエムとして書いてきたけど、そうとはとらえられない時代になってきたというか、そうした時代の変化を感じたように思います。


    ・世界劇団さんはこれまでツアーや各コンクールで様々な場所で上演されてきたと思うのですが、今回せんがわ劇場で上演してみた印象はいかがでしたか? 
    すごい上演しやすい空間だなと思いました。小劇場として環境が非常に整っていますし、私たちはコンクールやコンペティションも合わせるとこれまでに県内・県外合わせて10カ所以上の場所で上演をしてきたのですが、その中でもかなり空間的にやりやすい環境だと思いました。音も跳ね返りやすいですし。

    劇場機構としてもそうなんですが、コンクール自体もそうなんですがなるべく一般の市民の方に文化芸術をなるべく浸透させようという試みというか調布市の意思みたいなものは、私の活動にもマッチしているなと感じました。

    ある部分で演劇というのはインテリジェンスの高い人達が同じくインテリジェンスの高い人達に向けて作品を発表するものだという風な考え方を持っていらっしゃる方もいるとは思うんです。

    でも私はどちらかというと劇場空間というのは教育格差であったり経済格差を全部取っ払うもので、「演劇を上演する」というそのこと自体が「人間を祝う儀式」的な意味があると思ってやっているんです。

    なので今回の演劇コンクールの理念もきっとそうだと思うのですが、せんがわ劇場が展開しているアウトリーチ事業からもそういった「演劇の専門家⇔一般の人」という格差をなるべくなくしていこうというような理念が漂っていると感じられて、私にとってとても居心地のいい劇場でした。

    演劇をいわゆる「ハイ・アート(高級芸術)」として扱う雰囲気が、ちょっと苦手なんです。確かにクオリティの高い作品を上演することはすごくいいことだと思うんです。ただそれが「ハイ・アート!」という感じになると、かえってその垣根を作り出す作品もあるじゃないですか。なんというか「わかる人にはわかる」というような。

    もちろんそういうお芝居はあってもいいのだけれど、それを上演したことで社会的に何か起こしただろうか?ということを考えてしまうんです。
    事件的なというか、アクシデントというか、「それで何か起こっただろうか」って考えると何も起こっていないように思えてしまうんです。

    個人的にいわゆるそうした「ハイ・アート」とされるような作品に対して「上演をする」ということの勃発感がなくてあまり好きではないんですけれども、そういった中でもせんがわ劇場は一般の市民の方に向けて開けている印象がありますし、そしてそういったなかで社会性が求められている劇場だとも思うので、私はすごく好きで、たぶんそこにフィットしただろうな、とは思いました。



    【世界劇団 プロフィール】
    医師と医学生の劇団。
    代表の本坊由華子は2015年に四国劇王と中国劇王を獲得。2017年に松山・広島・北九州の三都市でツアーを実施し、2018年には利賀演劇人コンクールにて観客賞2位を受賞、松山・東京・三重で三都市ツアーを敢行した。作品創作のみならず、精神科領域で演劇の可能性を模索中。
      


  • 2019年09月21日

    受賞者インタビュー(4)  キュイ 綾門優季さん(劇作家賞)

    ・今後のキュイとしての活動予定や今後の展望、綾門さんご自身の執筆予定についてお聞かせください。
    不吉な話で申し訳ないけど、テロに巻き込まれずに死にたいですね。老衰とかがいい…。

    ただ展望としては遠すぎるので、もう少し近い話をしましょう。

    いま一番近いのは、こまばアゴラ劇場で『景観の邪魔』という作品の再演をします。
    (2019年11月21日-12月1日 こまばアゴラ劇場)
    このあいだ急な坂スタジオで、そのためのワークインプログレスをしていまして、元々短編だったものを長編に書きかえるので、いま新しいシーンを書いている最中なんです。

    この『景観の邪魔』という作品は2017年に初演したものなんですけど、逃れようのない天災、震災をテーマとしています。
    東京に大震災が起きたときに、東京がどうなるかという未来を仮想して描いた作品です。

    シーンを追加している中で、どんどん不吉なシーンを書き足したくなる衝動と戦っていますね。「204X年とか日本、本当にヤバいだろうな…」みたいな。
    みんなが「あはは」「うふふ」なんて暮らしている日本の未来なんて全然書けなくて。
    「そんなことあり得るか?」という。

    『景観の邪魔』以降は、いくつか企画段階のものがあったりします。

    ただ展望については、それこそ京アニのことについてもそうですけど、いま僕は混乱しながらインタビューを受けているんです。それはあまりに時間が経ってなさすぎるからです。
    これは僕に限らず誰もがそうだと思います。
    だから、テロを今後どう扱っていきたいか、なんて展望は、語れない、まだ。
    それこそ誰もがポカーンとしてる。あまりのことに、事実を受け止めきれていないというか。
    それを腑に落とすためには、おそらく年単位の時間が必要なんだと思います。
    『蹂躙を蹂躙』を書いているとき、座間の事件ですら、ちょっと近いなと感じたくらいなんです。

    なのでこれが数年、十数年、もしかしたらもっと時間が掛かるかもしれませんが、いま感じている悲しみみたいなものをそのまま流されてしまわずに、何か新作の戯曲に昇華できればいいなと思います。

    相模原の事件のことをすでに5人に1人が忘れているという衝撃的なニュースが飛び込んできたのですが、情報の海に流されないで生きていきたいです。オウムも忘れないし、秋葉原の事件も忘れない。一生忘れない。

    あと、そうだ、『非公式な恋人』という作品の上演が近いです。仙台で上演します。

    元々僕が青年団リンク キュイ『TTTTT』という公演で、ワワフラミンゴの鳥山フキさんに演出してもらうために書き下ろした『非公式な恋人』という短編戯曲があるんですけど、それをなぜか劇団 短距離男道ミサイル※が上演することになりました。
    (※仙台の若手男性俳優による劇団 https://srmissile.com/about

    女性4人と男1人の5人芝居なんですけど、「短距離男道ミサイルに女性4人もいたか?」という、どういうことなんだ、と思っている企画です。

    再演許可のメールが届いたときに二度見しましたからね。意味が分からないなと思って。どうする気なんだろう、女装祭りなんだろうか…。
    女性4人と男性1人の芝居だからなあ。男性4人と女性1人じゃないんです。だからどうやってあのメンツでやるのか、という。設定的に男性に置き換えてやることも出来ないんですよね、ジェンダーについて扱っていて、性別が非常に重要。
    あと「半裸になるタイミングはないぞ」と(笑)。作風的に大丈夫なんだろうか。
    作者の僕もよくわからないものが、10月に予定されています。アフタートークに呼ばれているので、必ず観ます。

    東北にいらっしゃる方にはぜひ観て頂きたいですが、それがキュイだと思ってほしくない、ということも同時にお伝えしておきたいですね(笑)。

    『非公式な恋人』は、まさかの総理大臣が暴走して独裁政権になる国家を扱った短編なんですけど、いやはや身に迫りますね。
    その主人公は特に悪い事はしていないんですけど、言論弾圧が激しく、わけがわからないまま精神病棟にぶち込まれます。
    初演の時はファンタジーとして書いたけど、今はどうだろう。ファンタジーとして観られるかしら、と。


    ・今後綾門さんがせんがわ劇場で特にチャレンジしてみたいことはなんでしょうか?
    今回のコンクールの応募書類にも書いたんですが、市街劇に興味があります。

    ただ、問題があるとすると、外でキュイの作品を上演していたら本物のテロだと思われるのではないかということです。ちょっとそこは大きな問題になりかねないので、作品を選んで対応したいと思います。
    『蹂躙を蹂躙』のセリフを外で喋るのはヤバすぎるので、そこは一考の余地があるかと。

    過去に「劇団しようよ」さんが外で演劇を上演※していたことがあったと思うのですが、もしそういう機会があればぜひやりたいという気持ちがあります。
    (※ 劇団しようよ 第6回せんがわ劇場演劇コンクール オーディエンス賞受賞記念公演 『翼をください、マジで』京王線仙川駅前公演)

    また今回のコンクールで『蹂躙を蹂躙』を初めて観たという調布市民の方に深い誤解を与えているかと思うのですが、僕はこれでもワークショップ講師をやったり、高校演劇の審査員や、大学演劇の審査員をしたりなど、ちゃんと教育方面の仕事もできるよ、してきたよ、ということをお伝えしたいです。

    作品だけだと「ちょっと調布市の施設には入れられないかな」と思う方もいらっしゃるかもしれないのですが「それはそれ、これはこれ」ですよ、ということはアピールしたいです。いつでも「世界に殺される!」とか言っているわけではない、ということはぜひここで強く言っておきたいところです。

    そうした事業もきちんとやることができると思います。作品のイメージで最初から除外しないでくださいということですね。
    作品からだととてもそうは思えないかもしれないけど、子供に近づけても大丈夫です。
    公社流体力学もその言い訳はしておいた方がいいのかなと思いますけれど(笑)、要らない心配ですかね。

    作風は作風、人は人ですよ。ということですね。


    ・これは稽古場インタビューを担当されたうえもとさんからの質問ですが、どんな音楽を聴いて執筆されていたんですか?
    きゃりーぱみゅぱみゅです。
    出演者ドン引きでしたけども。

    基本的に僕が戯曲を書くときに爆音で聞いているのは、きゃりーぱみゅぱみゅか、YUKIかcapsuleなんですけど。

    「何がどうなってそうなってしまうの?」って言われたりするんですけど(笑)。インプットとアウトプットがかみ合っていないんです。

    YUKIだったら「ランデヴー」「ふがいないや」とかが好きです。

    capsuleは「jelly」「グライダー」が好きですね。

    「本当ですか?」っていう。これが冗談じゃなくて、本当にこれを聴きながらあの作品を書いているというのが真に怖いところで…。 


    ・ありがとうございます。最後に、何か一言ありますか?
    『蹂躙を蹂躙』の前に『前世でも来世でも君は僕のことが嫌』という作品があって、それも無差別テロを扱った作品なんです。90分の作品で90人ぐらい死ぬので、大体1分にひとり死んでいく計算になります。

    昨年(2018年)の9月6日、僕の誕生日に北海道で大地震がありまして。

    その時に『前世でも来世でも君は僕のことが嫌』の上演台本が手元にあったのでそれをnoteで500円で販売して、その売り上げを北海道地震の復興支援として募金していました。募金受付が終了してからは通常販売へと切り替えていたんですが。

    今日(2019年7月24日)から正式に京アニが募金の受付を開始したので、もし微力でも僕にできることがあればということで、今度は売り上げの全額を、そちらへの募金にあてようと思います。募金も出来るし、戯曲も読めるという。

    微力でも、テロの被害に遭われた方に協力がしたいという方がもしいらっしゃいましたら、ぜひご覧になってください。

    『前世でも来世でも君は僕のことが嫌』
    https://note.mu/ayatoyuuki/n/nbd514fcbeab2
    綾門優季 note
    https://note.mu/ayatoyuuki

    『前世でも来世でも君は僕のことが嫌』の執筆中に僕が一番調べていたのは相模原で起きた障害者の殺傷事件でした。何の罪もない人や、幸せな生活というものが、一日で消え去ってしまうテロというものについて考える機会になればいいなと思って書いた作品です。

    もちろん僕も一定額を募金するつもりでいます。前回もそのようにしました。

    テロを扱っているからといって、テロを推進したいわけではもちろんなくて、防止したいんですね。当たり前ですが。
    僕は考え続けることがテロの防止に繋がっていくんだと思っています。
    人への想像力を決して失わないこと。
    想像力を失った人が知らない人を追い詰めて、追い詰められすぎた人が凶行に走るという構造があると思うんです。
    それについて考えること、想像することを絶やさずに続けられるように、微力でも今後演劇を通して、何かできればと思っています。




    【キュイ プロフィール】
    専属の俳優を持たない、プロデュース・ユニットとして活動中。戯曲は「震災、テロ、無差別殺人など、突発的な天災・人災を主なモチーフとすること」が特徴。『止まらない子供たちが轢かれてゆく』『不眠普及』でせんだい短編戯曲賞大賞を受賞。
      


  • 2019年09月20日

    受賞者インタビュー(3)  キュイ 綾門優季さん(劇作家賞)

    ・今回のファイナリスト6団体、コンクール全体についてはどのような印象を持たれましたか?
    やっぱり上演順が重要ですね!
    キュイ『蹂躙を蹂躙』は、なんてトップバッターに不向きな作品なんだと思って。

    あと公社流体力学は一番いい順番を引きましたよね、大トリで。
    今回のコンクールのあの流れだとそりゃグランプリは公社流体力学になるよな、というのは、僕もすべての団体のゲネプロを拝見して感じました。

    強いて言えば「あの流れで観たら、公社流体力学は元々の1.2倍くらい面白かったんじゃないか」問題というのがあって(笑)。

    公社さんだけで観たときに、どういう印象になるんだろうかというのは気になるところですね。

    今回の上演順だと、結構暗めの作品が多くて、みんなもうぐったりしてきたところにめちゃめちゃ笑えるのが来たからみんな「うわあぁぁ!!」ってなったと思うんですよ。
    絶対にそれはあって。

    その効果を失った状態での公社流体力学を拝見するのが、今から楽しみですね。

    キュイはトップバッターということもあって唯一、前の作品に影響されないので、フラットな観客の前で上演するという意味では、いつも通りでした。

    すべての団体の舞台稽古を拝見したうえで僕は公社流体力学がグランプリだと思って、実際にグランプリを獲ったので良かったです。
    全部観たキュイのスタッフとも話したのですが、観客の方々は自然にそう思うとしても、審査員に恵まれましたよね。
    やっぱり公社流体力学に関しては「いやいや笑ったけど!ストップ!ストップ!」という気持ちになる審査員もいて全然おかしくない作風ですからね(笑)。「おもしろいけど、グランプリあげていいのかな」というためらいがナチュラルに生まれる作品だったと思うんですけど、これはもうゴーサインを出した審査員の英断ですね。

    本当に知らない才能っていっぱいあるんですね。世界は広いなあ。ちゃんと広い視野を持たなきゃなあ。

    申し訳ないんですけど、今回のファイナリストで公社流体力学だけ知らなかったんです。
    世界劇団は昨年の利賀村で本坊さんが演出された作品を観ていましたし、イチニノはお名前だけですが確か何かのフェスのチラシで存じ上げていて。劇団速度はこまばアゴラ演劇コンクールへ主宰の野村さんが出場されたので、予選・決勝と上演を拝見して知っていて。

    ルサンチカは観たことなかったんですけど、かもめ演劇祭のAプロ観たら全体の審査会がそのまま始まって、Bプロも講評だけ聞いちゃって、しかも今回と同じタイトルの作品を上演されていたので、激しくネタバレしてました。「人、吊るんでしょ?」って(笑)。その時グランプリがルサンチカだったので、不要なまでにめっちゃしっかり聞いてしまっていたので。あのときは、エンニュイ、面白かったけどなあ。残念でした。

    公社流体力学だけ、ファイナリストが発表された時に初めてお名前を知りました。
    …やられましたね。爆弾でした本当に。いやぁ、文字通りの爆弾でした。

    なんで今まで無名だったんだろう…めちゃめちゃ面白かったですよ。
    まさかあんなに脚本がしっかりしているとは思いませんでした。「意外と伏線をキッチリ回収していくんだな」と。あれで劇作家賞も公社さんに獲られてたら、涙が止まらなかった可能性ありますね(笑)。
    脚本が割と良かったので、劇作家賞も危ないとさえ思いました。


    ・今回のせんがわ劇場演劇コンクールの観客のみなさんの印象はいかがでしたか?
    なんというか、言っていいのかな、社会的にどちらかというと上のほうの階級の方が多くないですか?
    『蹂躙を蹂躙』って、社会的に底の人たちが出て来る作品じゃないですか。底っていうか、少なくとも生まれつき恵まれている金持ちの人間の発想ではないだろうと思っているんです。
    せんがわ劇場の演劇コンクールを応援している方々や、毎年観に来て支えてくれている方々というのが、いわゆる小劇場演劇をコアに観る層というよりは、文化をしっかり応援している層という印象を受けました。

    普段キュイの主なお客さんというのは、そこまでお金があるわけでもなくて、世界に絶望している若者が一定数いて…語弊があるかもしれないけど…(笑)。

    そういう意味で言うと、割と裕福な層の方が多いのかな、と。

    金がなくて世界に絶望している若い層が『蹂躙を蹂躙』を観たらすべてはわからなくても「うん、うん」と辛さに同意するかもしれないけど、そうじゃないとしたらどうなんだろう。その問題意識が最初からあるかないかは、結構社会階層で区切られてしまうものなのかもな、と思っています。本当はこういうテーマでも、老若男女に伝えられるように出来れば良かったんですけどね。

    あと世代差によるものも大きいですよ。自分の年代(1991年生まれ)だと、生まれてきてから社会的にろくなことがなかったと思っています。
    それと裕福な時代の日本を経験している層だとまた考え方も違ってくるのかな、と。もちろんすべてが世代論にまとめられるわけではないですけど、とはいえ選挙結果とかみてるとねえ…。その差も結構あるんじゃないかということを、観客の方の反応の差をみていて考えました。


    ・今回の作品についての各専門審査員からの講評を受けて、いまどのように考えていらっしゃいますか。
    加藤さんが「わかりにくいもの」を肯定された講評だったのには勇気づけられました。

    そして杉山至さんの舞台美術についての厳しいご意見ですね。
    特に今回美術として用いたアヒルの人形についてです。

    アヒルについては「ものすごく殴る」ことがめちゃめちゃ多い作品なので、それを本当に俳優を殴って表現していたらドン引きじゃないですか。それが嘘の演技だとしてもです。

    でもとにかく数十回は人を殴るシーンが出てくるから、それをどうするか考えた時に、あのかわいいアヒルで、つぶすと「キュー」って鳴って可愛いし微笑ましいんだけど、あれは本当は人間の悲鳴なのだ、という形で間接的に表現するといういいアイディアだと、稽古場では思っていて。演出の得地君が舞台上で観られるものにしてくれたんだと。

    『蹂躙を蹂躙』は、戯曲だけ読むとほんとにしんどくて。それを得地君の演出によってポップに、上演として耐えられるものになった。アヒルによって「殴る」ということの暴力性を緩和したのは、僕としては良かったと思ってました。

    ただそのアヒルの意味合いであるとか、果たしてこの戯曲を届けるのにその演出が適切であったかということが、今回特に審査員の方からの意見の中心になったかと思います。

    それについては、作・演出が分かれているので稽古場で議論を重ねてきて、もちろん演出の得地君の意見も戯曲に入っているし、僕も稽古場で演出をみていたわけだから、もっと稽古場で客観的な目をもってしっかり話し合えればよかったかなと、今なら思います。

    稽古場では、アヒルはいいアイディアだと思い込んでいて、そこまで疑義は出ませんでした。


    ・稽古をご覧にならない劇作家の方もいらっしゃると聞きますが、綾門さんは稽古をご覧になるんですね。

    他の劇団への脚本の書き下ろしの場合だと、座組に渡して稽古をすこし観るだけということもありますが、自分のカンパニーだと主宰でもあるので、よほどのことがない限りは行って稽古をみます。

    あとはもちろん初稿からまったく変えないわけではないので、稽古の状況に応じて、セリフを書き直したり書き足したりとかします。

    一番大きなところでいうと、初稿を上演してみたら28分だった問題というのがあって。「若干足りなくね?」ということになったんです。
    「まあ40分ギリギリを狙った方がいいだろう」というのは、昨年のコンクールでコトリ会議がなぜか上演時間が22分でざわついたという話を聞いて思っていたので(笑)、きちっと必要のあるシーンを入れて、膨らませるために細かく書き足したりしましたね。



    【キュイ プロフィール】
    専属の俳優を持たない、プロデュース・ユニットとして活動中。戯曲は「震災、テロ、無差別殺人など、突発的な天災・人災を主なモチーフとすること」が特徴。『止まらない子供たちが轢かれてゆく』『不眠普及』でせんだい短編戯曲賞大賞を受賞。

      


  • 2019年09月19日

    受賞者インタビュー(2)  キュイ 綾門優季さん(劇作家賞)

    ・今回上演された『蹂躙を蹂躙』という作品について、作品を書かれていた時に特に大切にしていたコンセプトや、考えていたことについて教えてください。
    わかりやすく観客にサービスしないことです。
    何故かというと、先程の話とも繋がるんですが、ややこしい事件を簡単に報道してしまっていることがあるんです。そんな簡単にしてしまっていいのか、というぐらいに。

    ニュースで伝える時でも、特集でも組まない限りは、ひとつの事件に割かれる時間はせいぜい3分とか5分とかです。
    そうなると、本来難解であるはずの事件を「こうしてこうしてこうなったからこうなりました、以上」という短いあらすじ紹介のような報道になってしまっていて。それを疑問も持たずに、受け入れてしまっているひともいます。

    それこそ興味がなければ京アニの事件も登戸の事件も、「知ってる」っていってもスマホの画面上部に一瞬表示される、ニュース速報の一行で終わってしまっているかもしれないし、そこで止まっている人も実際多いと思うんです。

    『蹂躙を蹂躙』を書いた時点で僕が調べていたのは、ヒンターカイフェック事件※という1922年のドイツで起きた未解決事件のことです。
    (※ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6

    その頃のドイツ警察が現代よりも発達していなかったこともあって、一家が惨殺されたのに、遂に犯人が捕まらなかったという凶悪な事件でした。
    断片的な証拠と、そこで犯人が何をしたかという行動の痕跡がおぼろげにあってもそれが証拠に繋がらず、いったい何が起こったのかを後から調べてもはっきりとはわからないままだったそうです。

    もうひとつは座間で起きた連続殺人事件※です。あの事件のことが僕にとってはかなり重要でした。そしてそのあとに登戸の殺傷事件※2 が起きて、そのことについては稽古場でもかなり議論になりました。
    (※ 座間9遺体殺人事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%A7%E9%96%939%E9%81%BA%E4%BD%93%E4%BA%8B%E4%BB%B6
    ※2 2019年5月に川崎市登戸で発生した通り魔殺傷事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E6%AE%BA%E5%82%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6 

    というのは、登戸の事件が起きた時点で戯曲は8割出来上がっていたんです。なので、そのあとは2割しか書いていないから、全く参考にしなかったとは言わないまでも、偶然作品がそれにもともと近い内容を扱っていたんですね。

    俳優から、戯曲の初稿が届いた時点で「(事件と)近すぎるんじゃないか」という意見が出ました。登戸の事件が起きてから書いたわけではない、たまたま前から準備していた作品が、実際の事件に似てしまっただけだ、ということは分かるけれど、それにしても今これを上演するということに対して「大丈夫なのか」ということについて、稽古場で議論にはなりました。

    結局のところ、セリフを変えることはしませんでした。
    それによってマイルドにするとか、事件を想起させないように話の筋を変更するということはしなかったので、構想していたままの戯曲を、そのまま上演することになりました。

    でも、やっぱりお客さんの多くは「なんでこんなにわかりにくいのか」と思ったみたいです。想像以上に何も伝わらなかった。技術不足でした。ここは難しいところですが、わかりやすいから伝わる、わけじゃないと思います。わかりにくくても十全に伝えられることがあります。

    ただやっぱり今回執筆にあたっていろいろ調べていて思うのは、その時の犯人の精神状態が、一行で説明できるはずがないということです。一行で説明出来ることは、説明出来てるんじゃなくて、必要な部分を省略しているんですよね。

    例えば、僕は京アニの事件が起きた日のTwitterがめちゃくちゃ荒れたんですが、あれはもう何かを書かないことにはどうしようもない精神状態だったが、しかし激しく混乱していて、自分の中で結論もまとまっていないのに、ただひたすら喋ってしまったという感じだったんですね。

    そうすると、一貫していないんです。「こうかもしれないし、こうかもしれないし、ああ、でもこうかも、いやでもちがうちがう、あれがあるから…」という感じでいろんなものが、混ざりあった形で出てきてしまう。

    そういう極限の精神状態になった人というのは、複数の感情がまとまりを持たずに入り乱れて出てきてしまう可能性が高い。
    それをむりやり落ち着けようとすると、短絡的な論理に行き着いてしまう。

    『蹂躙を蹂躙』の中でも最終的に「世界を殺すか、世界に殺されるか」という二者択一に陥るんですけどそんな訳はなくて。そんな世界対自分なんて、単純なものじゃないはず。セカイ系の主人公じゃないんですよ。多くのひとは。

    強制的にものごとを単純化してしまうことがとても危険。その意味で『蹂躙を蹂躙』のラストシーンで、得地君の演出で舞台上で恐らく死体として倒されるパイプ椅子が、すべて同じパイプ椅子であるということが、演出上重要なことなのではないかと、客観的に観て思っていました。

    人間は本来別々のものなんですよね。ひとりひとり姿かたちも違って、年齢も性別も出自も、バラバラであるはずなのに。
    『蹂躙を蹂躙』で描かれているのは犯人の内面世界ですよね。犯人視点のみで書かれている。その犯人にとって、周囲の世界や人々があのように見えてしまっていることがヤバいんです。グラデーションを失っている。

    あのパイプ椅子のシーンを観てどういう人が死んだのか、子供が死んだのか大人が死んだのか、男女比はどうだったのかということについて、観客は何も分からないわけですよね。たくさんのひとが死んだこと以外ほとんどわからない。ただ同じパイプ椅子だけがランダムに倒れていく。
    もし犯人とされる人間が、あれぐらいのレベルで他者を捉えているのだとしたら、非常にヤバい。

    しかし、そのような精神状態になるということが、どういう思考回路をもって生まれてきたとしても起こり得る可能性があるとしたら、どうしてそうなるのか、ということを考えていきたいんです。私たちに延長線上に、犯人がいるとしたら。

    そしてそれが、今の時点では、あのような形になったんです。


    ・今回のせんがわ劇場演劇コンクールでキュイ・綾門優季の作品を初めてご覧になった方も多くいたのではないかという印象を持たれたという話もありましたが、その後の反響も含めて今回のせんがわ劇場での上演の印象はいかがでしたか? 
    コンクールに出て良かったと思うことの一つは、客席がポカーンとしてる、ということを理解したことですね。旗揚げ当時を思い出しました。

    旗揚げから9年経っているから、キュイの公演で一見さんは少なくなってきている訳です。前から観てくださっている方が大部分で、そこに加えて、初めて観にいらして下さる方もぼちぼちいる、という比率なんです。いつもなら。

    コンクールではたぶんその逆で、前から観に来てくださっている方もいるけれども、おそらく今回初めてキュイを観た方のほうが全体的には多かったと思います。

    上演自体は決して出来の悪いものではなかったし、通し稽古やゲネプロと比べても本番は最もよいパフォーマンスだったというのが座組の中での一致した見解なので、今回の結果について悔いはありません。

    そして元々「わかりやすくしない」ことを目指したとはいえ、審査員の方からのご指摘があった通り、想像以上に客席と舞台との距離が出来たまま埋まらなかったのは、やっぱり思慮が浅かったとも思います。

    伝わらなくていいとは思っていないんです。そういう意味では伝わらないにも程がありましたね。

    だから、あそこでポカーンとしてしまった人たちがもう一度キュイを観に来た時に、もっと伝わるといいな、と素朴に思います。



    【キュイ プロフィール】
    専属の俳優を持たない、プロデュース・ユニットとして活動中。戯曲は「震災、テロ、無差別殺人など、突発的な天災・人災を主なモチーフとすること」が特徴。『止まらない子供たちが轢かれてゆく』『不眠普及』でせんだい短編戯曲賞大賞を受賞。
      


  • 2019年09月18日

    受賞者インタビュー(1)  キュイ 綾門優季さん(劇作家賞)

    ・まずは受賞されての率直な感想をお聞かせください。
    今回のこの受賞インタビューを、たまたま僕のスケジュールの都合でコンクールの受賞発表から10日後※に受けているんですが、この10日間のうちに未曽有の出来事が起きまして、これを避けては今回の作品についてはもう、喋ることが出来ないだろうというのが率直な気持ちです。(※綾門さんには後日インタビューにご協力頂きました。)

    その事件というのは、ご存知の方も多いと思いますが、京アニで起きた放火事件です。
    まだ事件から一週間も経っていないくらいなので、連日の報道で死者も増えていきますし、まだ全然気持ちの整理がついていない状況です。深い悲しみの中にいます。
    Twitterでもちらほら見かけたんですが、今回の『蹂躙を蹂躙』を観た方の中で、事件のニュースを観た瞬間に、作品のことを思い出した、という方がいらっしゃいました。実際、あまりにも連想しやすい作品だったと思っています。

    他でもない作者の僕が、事件のことを知った瞬間に『蹂躙を蹂躙』のことを強く想起し、悲しみに暮れたくらいなので、それはたぶん、今回の座組のみなさんにも、劇場で作品を観た方にも、少なからず起きた現象なのではないかと推測しています。

    今回、劇作家賞に選んでくださった審査員の方々にはすごく感謝の気持ちはありますし、劇場に足を運んで作品を観ていただいた、観客の方々にも感謝の気持ちはあるんですけど、気持ちは今、物凄く沈んでいます。

    コンクール当日にこのインタビューを収録していたら、もしかしたら「やったー!」って言っていたかもしれないんですが、今ではどうにも無理な気持ちになってしまいました。喜びの気持ちが全くなくて、毎日、事件のことばかりを考えて、心の痛みが酷いです。

    受賞インタビューなのに申し訳ないんですけど、それが今の率直な気持ちです。


    ・ありがとうございます。キュイという演劇プロデュースユニット、そして劇作家としての綾門さんの創作のテーマやコンセプトについて、あらためて教えてください。
    キュイとしての活動としては9年目に差し掛かります。これまでにすべての作品でテロを扱ってきたわけではもちろんないんですが、それでも数作品、片手で余る数を上演してきたわけで、割と頻繁にテロをテーマに扱ってきていると言っていいと思います。

    もちろん、直接的にテロを扱った作品を観ていて楽しいわけがないし、観客の方から「せっかく劇場に来たのになんで楽しい作品じゃないんだ!」的な文句をいただくことは実際、以前もあったんですよね。

    特に今回、普段の公演に比べてキュイの作品を初めて観た方が多かったと思いますし、しかもコンクールのトップバッターだったので「……え?」という空気が流れました。出演者の方たちも、舞台上で少なからず感じたと言っていました。

    あとはキュイっていう名前だけ知っていたり、綾門の名前だけは知っていたというような人たちが、実際に初めてキュイの作品を観てびっくりしちゃった、ということもよく起きます。思ってたのと違う、ってやつですね。こういうものだとは事前に想定しないから。

    それについて一貫した主張として思うのは、今、日本の社会がいい方向に向かっているとはあまり捉えていないんですね。なんだったらだんだん邪悪な方向に向かっているんじゃないかという気がします。特に僕が大人になってからは、強くそう感じているんです。それで楽しい作品を書くほうが僕には難しいし、無理に楽しくしても、どうにも嘘っぽく感じてしまうところがあるんです。

    僕は27歳なので、選挙権を持ってから7年が経ちましたが、僕の支持する候補者はずっと落選し続けている。貧しい若者や、今ある文化を守ろうという公約を掲げている方が、何故か毎回のように落選する。本当に不思議です。まっとうな意見に、民衆のほうが耳を貸さなくなってきているのではないか。今回の作品について、盛んに「閉じている」という講評がなされましたが、それは時代の反映ですよ。知っているひとの知っている意見だけで、多くのひとは、閉じている気がして。

    テロにしても、令和に入ってこの僅か3カ月の間に、いくらなんでも頻繁に起き過ぎています。登戸の事件もそうだし、年に1回起こるだけで、その事実を知っただけで精神がめちゃくちゃになるような事件が、この短期間に立て続けに起きて、全体的に心が疲弊してしまっている、という絶対的な感覚があって。

    こんな社会状況なのに「令和の最初はこういう感じだったけど、この後数十年は特に何もありませんでした~、めでたしめでたし、ちゃんちゃん」というような未来には、まずならないと思っているんです。そんなに楽観的にはなれない。

    平成の終わりだけで考えても、座間の事件があり、相模原の事件がありました。

    その時にどうしても疑問に思うのは、メディアやSNSで盛大に犯人を叩いても仕方がないということで。特に犯人がすでに死んでしまっているケースで犯人を罵倒しようが、犯人の家族歴や隣人との関係を詳細に報道しようが、あんまり意味がなくて。

    問題なのは、そういうことを起こすひとを、今の社会が恒常的に生み出してしまっているという紛れもない事実だと思いますし、その原因がどこにあるのかを緻密に議論しなければならないんですが、「一人で死ね」の是非とか、どうにも問題を矮小化して伝えてしまっています。そこがいちばん重要なわけじゃない。犯人をモンスターと平気で呼ぶようなコメンテーターがいてギョッとしました。宇宙人がいきなり攻めてきたんじゃないんです。私たちと同じ人間で、そこには必ず思考がある。相模原の犯人のドキュメンタリー番組をみればわかることです。それを簡単に排除して、怖いよねえ、で済ませようとしているひとたちのほうが、僕には何倍も怖いです。何も済んでない。押し入れにあらゆるものを放り込んで、「部屋を片付けた」と言い張ってる感じ。全く片付いてないのに。

    そこに問いを容赦なく突きつけるのが、使命のひとつだと思っているんです。これがたとえあなたたちの知らない演劇だとしても、そんなことは関係なく、そうなんです。何で演劇だったら、人を楽しませないといけないんですかね。映画でも、笑いのないもの、楽しくないもの、怖いものは溢れているのに。SNSでもチラシでも、正直にどういう物語を上演するか、伝えてきたはずです。やかましいぐらいに。しんどい内容ですよ、って。それでも文句を言うひとはいる。僕はあらゆるところで説明責任を果たすしかないので、それで伝わらなければ、もうどうしようもないです。

    乱暴に言うと、観客は大きくふたつのタイプに分かれます。
    現実が辛いから、せめて劇場だけでも楽しい作品に触れたいという方。
    そしてもうひとつは、現実がたとえ辛くても悲しくても、なぜそのようなことが起きるのか、その原因を理解したり考えたりしたい、そのきっかけとして作品を享受したい方。
    もちろんこのふたつはグラデーションで、混ざり合っているのですが。

    仮にそうだとして、決して前者のお客さんを否定するわけではないんです。僕も京アニの事件が起きた時には複数の仕事を進めていたけれど、どうしてもショックで一旦手が止まってしまい、体調を一時的に著しく崩してしまいました。

    好きなミュージシャンの曲を聴くとか好きな本を開くとかして、気持ちを落ち着けないと、どうしようもない状態になりました。いつでも元気をくれる、楽しいものは、確かにあった方がいい。そのひとにとって、心の支えになるものがあった方がいいということは重々承知の上で、それでも、やっぱり、辛い現実を常に問うていく作品があっても、それはそれでいいんじゃないかと思うんですよ。

    きっと少数派であり続けるでしょうが、今後もそれについて考えていくことになると思うんです。強制的に。僕にとって社会について考えることと、テロについて考えることというのは、今、ほとんどイコールなんです。

    受賞した時のスピーチでも言ったんですが、僕が今どうしてもテロから目を離せないということが、演劇と直接関係あるかどうか分からないが、ただもうこのようにするしかないんだと。それについて書かざるを得ないんだと、言いました。

    演劇的にどうあるべきかとか、流行りの演劇はどうであるかとは最早関係がなく、僕が今これを問う必要があるのではないかと信じることを、徹底的に追及して、表現として捻り出すしかないんじゃないかと思っていますし、それは今後の方針として、恐らく変わることはありません。


    【キュイ プロフィール】
    専属の俳優を持たない、プロデュース・ユニットとして活動中。戯曲は「震災、テロ、無差別殺人など、突発的な天災・人災を主なモチーフとすること」が特徴。『止まらない子供たちが轢かれてゆく』『不眠普及』でせんだい短編戯曲賞大賞を受賞。  


  • 2019年09月16日

    受賞者インタビュー(2)  ルサンチカ 河井朗さん(演出家賞)

    ・今回のコンクール全体についての印象はいかがでしょうか。
    異なったジャンルの作品がちゃんと集まったのがすごくいいことだなと思いました。
    専門審査員の作品との向き合い方もとてもフラットで、「作品と社会」「劇場と作品」「観客と審査員」という風にそれぞれの関係にしっかりと眼差しが向けられていて、しっかりとした判断基準があったのがとてもよかったです。


    ・講評会では専門審査員の方々からのさまざまな講評や意見、感想がありましたが、それを受けて今思われることはありますか。
    言われたことはすべて納得できるものでしたし、だからといって作品の性質上その変化をもたらす必要もないなと思えることもありました。ただコンクールというシステム上、上演デザインの中で出来ないことや制約も多々あったので、そういう一面についてはどう考えていけばいいかいま悩んでいます。

    ただ本作がしっかり賛否の意見があったのが良かったなと思っています。「これは演劇なのか?」ということと、「観客とどうやって対話するか」ということをずっと考えていました。作品の中で語られる言葉が「理想の死に方」についてのインタビューから採られたものだというのもそのためです。
    その過程を演劇的なアプローチに入れ込んで作品にしてみたというだけなので、そういった意味で色々な意見があったのがすごく嬉しいです。


    ・ありがとうございます。ルサンチカさんの今後の活動予定や、展望について教えてください。
    この「理想の死に方」というシリーズで京都府立文化芸術会館と提携して2019年から2021年までの3年間、制作していきます。2年目となる来年は「仕事」についてインタビューして作品を作ろうと思っています。
    社会的に、人は働くことで自分の居場所を作ることができるということがあると思うんです。「働く」ということから自分たちは何者かを問えるような作品ができたらいいなと思っています。

    そして三年目にはシリアのグータであった出来事を題材に作品を作ろうと思っています。
    内戦中のシリア、グータから「#IAmStillAlive(私はまだ生きている)」というハッシュタグをつけて、毎日地下室や避難所からTwitterへ動画や写真を投稿していた一般市民の男性がいたんです。
    去年その彼は戦闘に巻き込まれて亡くなってしまったんですが、亡くなってしまったことが分かってからTwitter上では「#NoLongerAlive(彼はもう生きていない)」というハッシュタグが追加されたんです。
    その「今までここで生きていた彼が、今日はもういなくなった。」ということから、「私たちは今日をどうやって生きていくのか」ということについて考える作品を作りたいなと思っています。

    最終的には「理想の死に方」と「仕事」と「私たちは今日をどうやって生きるのか」というこの3つの作品の上演とインタビューの展示を両方できたらいいなと思っています。

    ―人が日常生活の中であらたまって生きることや死ぬことについて考えるというのは、西洋だったら教会、日本だったらお寺といった宗教的な場所が担ってきた役割なのかなと思うのですが、ルサンチカさんの作品はそういった人の生死に対する根源的な問いについて真正面から取り組んでいる印象を受けました。

    そうですね、ただ考える機会を作るだけの上演なんです、本当に。


    ・ありがとうございます。今後せんがわ劇場でチャレンジしてみたいことはありますか?
    京都府立文化芸術会館もせんがわ劇場と同じく公共の劇場なんですが、そういった公共の劇場に公演がない時どうやったら人は足を踏み入れてくれるんだろうと。

    公共の劇場というのは、劇場自身で観客を創客しなければいけないと思うんです。そう考えたときに、公演がなくても人が来れるような場所ってどこなんだろうって考えてみると図書館みたいな場所なのかなと思うんですね。
    そういった場所がどうにかしてできないのだろうか。

    人が劇場へ日常的に足を運べるようになるために、何か恒久的に続いているサービスやイベントと劇場を結びつけることが出来ないかということを考えていきたいと思っています。


    ・ありがとうございます。最後に何か一言ありますか?
    今回の作中で使用したインタビューもすべてルサンチカのサイトに載っているので、もし気になる方はぜひ見てみてください。
    https://www.ressenchka.com/




    【ルサンチカ プロフィール】
    河井朗が主宰、演出を行う演劇カンパニー。物事の色々をひとまず両手ですくい取ってみて、その時にこぼれ落ちた側に焦点を当てて作品をつくる。主に既成戯曲、小説、インタビューなどを用いて舞台作品を制作する。
      


  • 2019年09月15日

    受賞者インタビュー(1)  ルサンチカ 河井朗さん(演出家賞)

    ・今回演出家賞を受賞されましたが、まずは率直な受賞の感想をお聞かせください。
    そうですね、嬉しくも悔しいという気持ちがあります、やるからにはグランプリが獲りたいなとは思っていたんですけど。
    それでもこの作品が審査員の皆さんやいろんなお客様に認められたのは、すごく光栄に思います。


    ・今回上演された『PIPE DREAM』という作品はもともと京都府立芸術文化センターで2019年~2021年まで3年間にわたる支援プログラムの中で創作された作品だということですが、そもそもルサンチカさんの普段の活動のテーマや創作時のコンセプトを教えてください。
    僕は劇団じゃなくてユニットという扱いなので、基本的には僕個人で制作をしています。
    作品のテーマ性としては主に「人がこれからをどうやって生きていくか」ということを考えていて、僕が抱えている問題を、そのとき集まったクリエイションメンバーとともにどう作品にしていくかということを考えながら活動しています。


    ・今回上演した『PIPE DREAM』という作品について、特に強く抱いていたテーマやコンセプトについて教えてください。
    「人の話をどうやって聞けるだろうか」ということをずっと考えていました。
    それと植物状態になった私の祖母のことを考えていました。
    相模原障害者施設殺傷事件の加害者の男が「意思の疎通をとれない人間は殺してもいい」ということを言っていて、
    その言葉を聞いた時に、だとすると僕たちは赤ちゃんを殺さなければならないし、犬も殺さなければならないし、植物状態の人のことも殺さなくちゃいけないなということを考えてしまって。
    そうすると私の祖母は死んでしまうな、とも思ってしまったんです。
    それで「意思の疎通」というテーマが一つ大きくありました。

    もう一つは、スウェーデンで流行っている「生存放棄症候群※」という難病のことでした。
    その病気は植物状態になったわけではなく、ただただ眠りから覚めないという病気なんです。
    さきほどの「意思の疎通をとれない人間は殺してもいい」という前提からすると、その人たちも殺されてしまうな、と思って。
    でも僕は、その人たちは今を生きることを保留にしたんだなと思ったんです。
    (※20年前からスウェーデンでのみ発生している難病。亡命を望む難民のこども達に多く見られ、強い精神的ストレスが原因と考えられている。)

    今の時勢は生きることに関して様々な決断を自己責任というもので求められる時代だなと思うんですが、
    それを一旦自己責任で解決できないものは保留にしてもいいのではないか、という思いがありました。

    なので「意思の疎通」と、「どうやって今の生き方を保留にすることができるか」ということを考えるために今回の作品を作りました。


    ・今回の「PIPE DREAM」という作品では、舞台上で人が宙づりにされているというのが多くの観客にとって特に印象的だったのではないかと思います。また審査会でも杉山至さんが言及されていましたが「人の呼吸を思わせる照明の明滅」というのも今回観る者に強い印象を与えるものでした。今回演出をされた中で、そうした視覚的に印象的な手法を選んでいったのにはどのような狙いがあったのでしょうか。
    たとえば人は植物状態になって寝たきりで長い間動かないと、関節が動かない拘縮状態になってしまうんですね。
    そうして地に足をついて動くことができない、関節が固くなる、動けないという現象をどうやったら舞台上で意図的に作れるかなと考えたときに、一度空を飛ばす(宙に吊り上げる)べきかなと考えました。
    人はやはり地に足を付かない限り、自立運動は出来ないのだと今回の作品で改めて自覚しました。
    そういった意味で、ハーネスを着て空に飛ばすという方法を選びました。

    照明に関しては、京都府立文化芸術会館の照明スタッフの方と話した時に、ずっと動き続けるチェイスの照明がとても自然な流れでいいのではないかというプランがあったので、以来ずっとそのデザインで上演しています。
    意識的に照明だけを観てほしいというわけではもちろんなくて、舞台上で自然な流れでなにが起こるかわからないという状態を作り出せたらいいなと思っています。

    ただ上演中に起きる照明の動きは、実はすべて偶然だったりもするんですけど(笑)。


    ・ありがとうございます。先程お話のなかにも出ましたが、元々この作品は京都で製作され、今年の3月には神奈川かもめ「短編演劇」フェスティバルで、そして今回のコンクールと上演を重ねられてきましたが、今回の上演を終えてみての手ごたえや印象はいかがでしょうか。
    今回この作品は5回目の公演で、初演は僕一人だけで舞台に立って、そこからどんどんいろんな人とクリエイションを重ねてきました。
    せんがわでの上演は「どうやって人は眠りにつくのか」「死んでいくのか」ということについて考える旅みたいなものだなと思えました。もちろんこれからもずっと続いては行くんですけど、今回で一区切りをつけられたかなと思いました。



    【ルサンチカ プロフィール】
    河井朗が主宰、演出を行う演劇カンパニー。物事の色々をひとまず両手ですくい取ってみて、その時にこぼれ落ちた側に焦点を当てて作品をつくる。主に既成戯曲、小説、インタビューなどを用いて舞台作品を制作する。
      


  • 2019年09月12日

    第10回せんがわ劇場演劇コンクール講評 ~公社流体力学『美少女がやってくるぞ、ふるえて眠れ』~

    ※掲載の文章は、第10回せんがわ劇場演劇コンクール表彰式の際の講評を採録・再構成したものです。

    乗越:
    作品中に本人が言っていましたが、こういう作品がファイナリストに残るのが、せんがわ劇場演劇コンクールの素晴らしいところだなと自画自賛しております。本当に、こういう幅の広さが演劇の未来のために必要だろうと思います。
    上演中は一瞬「あれ、いま言いよどんだか?」と思わせたかと思うと絶妙にリカバリーしていったり。名優の安定した演技とはまた違う、ギリギリの魅力をギリギリのままに歩いていくのを見守る観客側の緊張感が、たまらなく魅力的でした。かと思うと最後まで息切れもしないし発語は聞き取りやすく、何気なく話していたように見えた伏線が鮮やかに最後で回収されたり、かなりの手練れなのではと思わせる。応募のビデオではもっと(言葉は悪いが)モッサリしたおっさんのイメージで、美少女役も本人がやるのかよ! と怖いもの見たさもありました。しかし実際に見ると意外に爽やかで美少女を演じても違和感を感じさせない。それは演技力ということでしょう。
    他の作品も見たいものの、あまりにも劇作と演出と本人のキャラクターが渾然一体となった作品なので、これからどう進化していくのか未知数っぷりがハンパないですね。勝手な不安要素ですが、期待したいところでもあります。とても楽しかったです。

    杉山:
    もう爆弾でしたね、爆弾。先ほども言った箱庭演劇祭など、今の演劇業界は本当に閉塞的だと思った時に、その尺度で測れないものが来ちゃったなと思いました。「これ漫才?落語?なにこれ?」と最初思っていましたが、すごい演劇的なんですよ。もしかしてシェイクスピアを生で見ていたらこういう感じだったんじゃないのと思うぐらい、劇がはじまっているのに、劇じゃない。今、客席の状況に戻っちゃったりとか、シェイクスピアってそういうこと平気でやっていたんですよね。ハムレットでも一番最初「WHO ARE YOU?(フーアーユー)」という台詞ではじまる。「お前誰だよ、誰だよ」と言われちゃうわけですよ観客が、そういう感じを受けて、「え、なに?いまはじまってんのに僕が作ってきた話のことをしてるんだ」みたいなことって、すごい戦略的に練っていて、これが演劇。「令和世代の演劇」って僕は名付けました。新しいぞと、思いましたね。空間の使い方もすごいおもしろいんです。なにもないんですよ。キューブもなければ照明の変化もない。彼がちょっといる場所で、家はこれぐらい、廊下がこれくらいで、今本当に壁に彼の手が当たっている。「しゅうこ(役名)」はここからのぞいて来たんだな、とか、大宮の駅前の様子であるとか、本当に位置どり、微妙な位置どりなんです。で、これは漫才では起こらない。漫才とか落語ではこれをもっと省略化する。だから明らかにこれは演劇だなと思ったんです。そういうところも非常にエクセレントで、本当におもしろかったです。あと他者がいるという感じもよかったです。私小説的な話なんですけど、ものすごい他者の目線があって、他者の目線で書いてる。でさらに、(これもシェイクスピアっぽいんですけど)ちょっと哲学的なんですよね。「宇宙の力を愛が超える」という。シェイクスピアさらにはギリシャ悲劇まで遡れるような。だから「なんだこいつ」って思いました。これヘタウマなくせに、ものすごい。もしかしたら文学少年なのか、とすごく感じましたし、LGBT的なこともすごく考えているようで、レズのカップルだったりとか、それに対して美少女という定義も、これはたぶん徳永さんが仰られて本当にその通りだなと思ったんですけど、すごくおもしろいフレームを作られているなと思いました。今、本当に閉塞している演劇界にこういう爆弾が必要で、こういうことで演劇がまたどんどんどんどん変わっていければいいんだなという風に思います。

    加藤:
    もうとにかくエネルギーというか、圧をずっと感じ続けました。シームレスにはじまっているんですけれども、ちゃんとメタ構造になっていて、中でもちゃんといろんな話が展開していくし、遡って伏線も回収される。たったひとりしかいないんだけれども、ものすごくたくさんの作業をひとりでこの場で家内制手工業じゃないですけど、どんどん生産して、それをこうどんどん浴びせられてるエネルギーをすごく感じました。なんとかして、作中のそばかすいっぱいのツリ目の「しゅうこちゃん」を想像しようと思うんですけど、とにかくあなたの姿しか見えなくて、なんなんだろうと思いました。すごい不思議な経験だなと思いました。この先ご自身が例えば俳優として、他の作品に出演したり、なにか新しい作品を書いてみる可能性をすごく感じましたし、色んな場所で活躍する姿というのを見てみたいなと思いました。

    市原:
    まず台本読んで、「どんな人が書いてるんだろう」「どういう影響を受けてこういうものができるんだろう」と興味深く、パフォーマンスを見て、もう読んだ時よりも何倍もおもしろかったです。自作自演の方と言いますか、自分が書いた台本に出る方っていると思うんですけど、やはり自作自演ではない俳優さんとは存在感が違いますよね。そういう方ってやはりイメージの膨大さが他の俳優とは全然違うんだろうなと思います。自分が俳優でこの作品を演じろと言われたら敵わないというか。それを俳優として評価していいのか分からないんですけど、素晴らしいパフォーマンスだなと思いました。お客さんとのコミュニケーションの取り方とかも狙っているのか狙っていないのか分からないんですけど、おもしろかったです。

    我妻:
    最初に予選で映像を拝見した時は、あまり印象が良くなかったです。本当に自分でボソボソ言っているような。「俺の美少女に対してみんな、なにも言ってくれるなよ」みたいな排他的な人なんだろうな、と思ったんです。そういう排他的な人が来てもおもしろいかもな、と思って、予選は選びました。ちょっとそういう意味ではいじわるな面もありました。こういう人がこういう劇場でやったらどうなるんだろうという興味があって。それで今日、私たちが入ってくる時、客席前で接客をなさっていて、「お客様に対して案内ができるんだ」「ちゃんとしたとこあるんだ」「社会性あるんだ」と思ったんです。「お楽しみに」とアナウンスして緞帳幕の裏に下がって、幕が開いたらそのまま同じ格好で立っていたので、その朴訥さ、飾り気のなさがすごく強みになっている作品だったと思います。特に舞台装置もなく照明の変化もなく、飾りまくっているわけでもなく、かっこつけてるわけでもなく、その人そのものがいるということしかない状態で、その人そのものの強さが一番出た作品であったのではないか。それが私は自分がやっている踊りと似ているなと感じるところがありました。台詞の喋り方が上手だとか、テクニックが上手だとか、振付が上手だとか、足がこんだけ上がるとか、そういうところは本当に意味がなくて、その人はどういう魅力があるんだろうという人の魅力によってお客様を「うわぁ、おもしろい」と惹きつけられる。そういうところを感じました。舞台中、自分のことを語る時の観客との駆け引きが上手で、爆笑を引き起こしていました。私は笑いませんでしたけど、理由は本当にうまいなと驚きながら見ていたからです。そこが非常に魅力的な方だなと思いました。そういう意味では、語っているところが個人的な美少女像だけれども、テーマが普遍的に開けている部分もあって、見ている間共感するところが多い分、言葉の裏や意味など何も難しく考える隙きがなくて「ホッ」としました。これが難しい問題だったらどうしようかと思いました。見終わった後に、「あぁよかった」みたいな気持ちになれたのが、非常におもしろかったです。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
    徳永:
    みなさんが仰ったように、観ているこっちを心配させるような半拍遅れの台詞術で、それが逆に、観客が周知して耳を澄ますという状況をつくりました。しかも、必要な情報はちゃんと伝わっているという。話が進むにつれ、計算は見えないし、不器用に見えてるけれども、冷静でしたたかな表現者ではないかと感じました。どこまで素朴と思っていいのだろうかと笑いながらちょっと怖くなるくらいでした。
    美少女にこだわって美少女にまつわる作品を作り続けていると、応募用紙にも書いてありましたし、この作品もとにかく「美少女」「美少女」なんですけれども、美少女の定義が、世間で流通しているような、若くて可愛いということじゃないと。そこがいいんですよね。恋をして走り出したその瞬間が美少女なのである、という定義が、フェミニズムからの反発をかわすんです。さらに美少女同士が愛し合っていて、LGBTへの理解もある。さらに、太田さんが演じた人物は、彼女たちの幸せを願って、被らなくてもいいような不幸を被って孤軍奮闘する。決して劣情を抱いたおじさんのフェティシズムの話ではないというところが、話が見えてくるっていう全体の構成に、最後はすっかり引き込まれましたし、本当に感心しました。お疲れ様でした。










      


  • 2019年09月12日

    第10回せんがわ劇場演劇コンクール講評 ~ルサンチカ『PIPE DREAM』~

    ※掲載の文章は、第10回せんがわ劇場演劇コンクール表彰式の際の講評を採録・再構成したものです。

    我妻:
    非常に楽しかったです。扱っているテーマが「死」ということでどういうことになるんだろうと思ったんですけど舞台上はすごく軽やかな浮遊感もあり、と思えば、すごく重力を感じる空間もあり、というところの浮く感じと実際の重力を感じるその使い方がおもしろいなと思いました。どういう風に死にたいか、ということを語る形で進んでいくのですが、自分の頭で考えるのと違って他人に語る時、人はこういう風に死にたいと語る時点でフィクションが必ず生まれてくる。リアリティからかけ離れた希望、夢が生まれてくる。「死」を語りながらも、ふわふわしたありえない夢を語ってしまう。しかし「死」というものは私達の足元に確実に流れている。舞台の下に沈んでいくという最後の演出も不可避の「死」を象徴していて非常におもしろかった。あと、「あ、こういう風に死にたい」ということを語ることによって、今の自分の在り方を考える。そういう時間の使い方っておもしろいなと思いました。ちょっとまとめきれないのですが、よかったです。

    乗越:
    僕もこの作品はすごい好きでした。まず幕が開いた時から、観客は一体なにがはじまるんだろうとグッと引き込まれて、ずっと見てしまう。それが次から次へ、ことごとく観客の予想を裏切る形で進んでいき、興味を惹き続ける演出というのがまず大したものだと思いました。そこで語られるのが「死」とか、ましてや「理想の死」という、それ自体本来キッチュな話題ではあります。しかし同時にそれらは現代社会では隠されている。現代社会において、死は常に隠されるようになっている。ほとんどの人は病院で亡くなり、家で看取るようなことがない。家畜は知らぬ間に食材となり、動物の死体も速やかに片付けられる。
    そういう「死」を排除した現代社会において、死については、改めて問われなければ語られないだろう。そこへさらに「理想の」という別のフックをつけることで、個人の特徴ある死生観を引き出し、リアリティを持たせていたのが戦略として優れていた思います。
    また冒頭の照明が呼吸をするように明るくなったり暗くなったりして、しゃべっている空間がどんどん変わっていく。空間自体の質を変える照明が素晴らしかったと思います。
    吊られていが女性もはじめは受け身で吊られたままだったのが、途中から自分から起き上がってコントロールするようになっていく。そこに脚立が来て降りてくる、というように、どんどん能動的な形のコミュニケーションが展開していくのも素晴らしかったと思います。「理想の死」を考えることは、「死」という究極の受動に対して能動的に関わろうとするひとつの形ですから。
    またリノを剥がし、床板まで剥がしていくのも、現代社会で隠されている「死」の表層を剥いでいくようでした。しかもそのまま床下に潜っていったあとも、床下から舌打ちが鳴り続いている。舌打ち自体は冒頭で女性が引きずられて来た時からあり、それが最後まで続いていく。いかに理想的な死を語ろうと、ほとんどの人はそれとは無関係に死んでいくわけですが、それで全て終わるわけではない
    。死を受けれるだけで終わってたまるか、という能動の極みにも思える。などなど、見た人の思考を様々に広げる力がありますね。本当に感心した舞台でした。

    杉山:
    僕はちょっと分からなかったんです。すごく分からなくて、(審査員の方に色々聞いたりしたんですが)吊っていることと、死、つられているものは落下する、重力に逆らえないというのもあるんですけど、どちらかというと仕組みが気になっちゃいました。フライングってよく舞台でやるわけで一番難しいのはコントロールできないということ。吊られている人は、それをうまく脚でひっかけることによって、方向性をキープして、あと動滑車を使っているから、荷重が二分の一になっていてる安定している。だから落下するには「安定しているな」と機能の方に目がいっちゃったいうのは裏方だからだと思うんですけど、そこがちょっと。僕だからだなとは思うんですけど。あとリノをめくるとか、テープを剥がすって、すごくあざといと思って、でもそのことはすごく挑戦しがいのあることだし、どんどんやって欲しいんです。逆に劇場をぶっ壊すぐらいのことまでいってもいいと僕は思うんですけど、そういう面では演出がものすごい考えていて、アグレッシブで挑発的であるということは感じました。感じたんだけれども一方ですごくそのコントロールされている世界だなというのがあり、もうひとつ気になったのが今までコンクールで見てた作品が閉じているとか、私的であるという、すごくモノローグっぽい台詞が多くなって来ている。その時にこの台詞を聞いた時に「モノローグなのになんでモノローグに感じないのかな」って、思ったんですよ。そしたら「これはインタビューなのか」と、インタビューだと聞く相手がいるから、語り出したら多分それが観客、だからモノローグなのにこれはなんか違う言語なんだなと思った瞬間に逆に僕は、テキストがそのモノローグの色んなものをコラージュしているだけなのかなと思ったり。「死」について色々語られるんだけど、例えば「庭で11時の日に死にたい」と言った人はどこの誰なのか、(パンフレットにも書いてあったけど)「いろんな職業、いろんな人に聞きました」とは、「誰に聞いた?」「植木屋さんなのかな」とか「性別は男なのか?女なのか?」「年齢いくつなのか?」そういうことがすごく気になっちゃいました。インタビューであるということとドキュメンタリーなのか、すごく捏造されたフィクションなのかということの「悩み」みたいなことを僕は抱えながら見てしまいました。全体的に、演劇とはなんなのかをものすごく考えさせられるラディカルな作り方をしているので、頑張って欲しいというか、突き進んで欲しい。たぶん、ぶっ壊して新しい世界作ってくれるんじゃないかなと思いました。この人たちの…。

    加藤:
    すごい美しい作品だなという風に思いました。私は技術に詳しくないので、彼女が吊り下げられて「理想の死」について語っている間、もしこのまま不慮の事故が起きて、彼女が落ちて死んでしまったらどうしようっていう謎の共犯関係を劇場中に置かれたような気がして、その緊張感の中で見るというのはすごくおもしろかったです。私すごくひねくれた性格なので、インタビューって書いてあるけれど、インタビュー映像があるわけでもないし、音声があるわけでもなくて、どこまでがインタビューなんだろう。ということを考えながらちょっと見ていました。なので、そのあたりは一体なにが真実なのかちょっとお伺いしたいなという風に思っています。あとはこういうコンクールでいわゆるショーケース形式で複数の団体が一度に上演して仕込みの時間もバラシの時間も短いという中でとにかく劇場の機構を使い切ってやろうという心意気というのは素晴らしかったなと思います。

    市原:
    私も、宙に吊られていて、吊られている人が自分でそれを操っていた時に、あ、すごく大丈夫なものなんだこれは、って思ったんです。で、吊られていることのおもしろさが自分の中で減ってしまって。でもそれはつまらないことかもしれません。やられている事に対しても審査員それぞれ色んな解釈があってそれを聞くことはおもしろかったんですけど、私は正直そこまで深読みできなかったという感じがしたし、動きと言葉がどのくらい関わってるのかとかも私が分からなかったというのがありました。色んなものを剥いでいったり、開いたりして、それは驚くべきことなのに私は驚けないのはどうしてかなと思いました。その最後に舞台監督さん風の俳優が出て来て片付けていくのも、作品的にはひとつ事件だと思うんですけど、どうして事件になっていないんだろうと自分の中で思いました。そのひとつのアイデアとして照明は最初素敵だと思ったんですけど、そこからあまり裏切りがないというか、もっと変化がもしかしたらあってもよかったのかなと。起きていることの面白さが届いているかというと私は分からなかったという感じがありました。

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    徳永:
    死と眠りをシームレスに繋げるという狙いがあったのかなと感じました。最初に女性が寝言をしゃべっているような状態で登場して、男性がラピッドアイムーブメントの説明をする。そのオープニングで、これからはじまるのは夢についての物語であろう、と受け取ったわけですが、以降の情報の出し方があまり上手くいかなくて、観客が長い待ちの状態になってしまった。企画書に、事前に「理想の死」にまつわるインタビューをして、それを採り入れたとあったので、それを読んだ人はなんとなく理解できたでしょうが、前情報がないお客さんには、受け止めるまでに時間がかかってしまったんじゃないでしょうか。ただ、私はすごく好きな作品で、近藤さんもよかったと思うんですけど、地道さんもよかったです。さまざまな段取りをこなしつつ、インタビューで語られた「理想の死」について粛々と話す近藤さんとは対象的な、幻視された死を差し込むみたいな役割を請け負いつつ、お客さんに向けて開いていたような気がするんです。その点はすごくよかったです。